光明真言の唱え方

 ときどき、「こんな真言を唱えてもよいですか?」という質問を頂くことがあります。

 いわゆる「在家勤行次第」などの、在家の方向けの経本に載っているものなら

ば、まったく問題が無いのかもしれません。

 しかし、僧侶向けの経本にしか載っていないものであったり、僧侶であっても、

普段はめったに唱えないような特殊なものについては、「いいですよ」と言うのを

躊躇してしまいます。

 

 密教行者として、一番の重罪は「越三昧耶(越法)罪」というものです。

 修業の進んでいない者、資格を有しないものに、秘密の教えを伝えることで、殺

人などよりも重罪とされます。

 

 たとえば、真言宗で日々唱えられている理趣経ですが、原則として理趣経加行を

終えた者しか唱えてはいけないとされていました。

 また、最近では梵字(悉曇)を一般の方でも学んでいますが、こちらもちゃんと許

可(こか)を受けた僧侶に伝授されるべきものとされています。

 

 さらに、一般に唱えられている真言についても、意味を教えてよいのかどうか、

という問題もあります。

 

 そもそも真言を訳すこと自体が、良いことなのかどうか争いがあります。

 

 真言宗で、一番大切なのは「三密行」です。

 私たちと仏さまとは、構成要素は同じです。

 同じように体を動かし、言葉を使い、気持ちを働かせます。

 しかし、仏さまと異なり、私たちは、その身体、口、意を悪用してしまい悪業を

重ねてしまいます。身口意から生じる「三業」です。

 

 どうにか、身口意を仏さまのように使いこなす訓練が「三密行」といってよいで

しょう。

 

 これは、僧侶だけの専売特許ではなく、在家の方でもできる行です。

 

 たとえば、真言を唱えるだけでも可能です。

 

 手に印を結ぶ。 

 姿勢を正し、仏さまと同じように印を結ぶ。

 これで、仏さまの身体となる「身密」です。

 残念ながら、様々な印はお教えすることはできませんが、「合掌」こそが最高の

印です。最も基本なのですが、奇麗に合掌できる方って、意外と少ないです。

 

 口に真言を唱える。

 真言は、文字通り、仏さまの真理の言葉です。 

 これを唱えることで、仏さまの言葉の働きである「口密」となります。

 

 最後に、仏さまのような気持ちを込めることで「意密」となるのですが、これが

一番、難しいかもしれません。

 

 気持ちを込めるためには、やはり真言の意味を理解しないと難しいと思います。

 

 前フリが長くなりました。

 今日は、皆さんがいつもお唱えしてくださっている真言である光明真言について

説明したいと思います。

 

 僧侶同士で最強の真言は何か?といった中二病同士の会話となると、必ず上位に

くるのが光明真言です。

 

 常の勤行、葬儀、回忌法要・・・どの場面でも唱えられるといってよい真言です。

 

 また、特定の仏さまを前にして、真言が分からなければ、光明真言を唱えておけ

ばよい、等とオールマィティな真言として説明される方もおられます。

 

 これらには理由があります。真言の意味を見ていきましょう。

 

 オン 

 アボキャ ベイロシャノウ  マカ ボダラ

 マニ ハンドマ ジンバラ

 ハラバリタヤ

 ウン

 

 オンは「南無」くらいの意味です。「帰依します」って感じです。

 

 アボキャは「不空」。

 私たちの願いを空しくすることがない、必ず効験がある存在という意味です。

 

 ベイロシャノウは「遍照」

 太陽でも月でも、影ができますが、「遍照」とは影が生じない光です。

つまりは、どんな人ををも見逃さずに救ってくれる存在です。

 

 マカ ボダラは「大いなる印」

 偉大な印によって象徴される存在です。

 

 ここで、光明真言が誰に対する真言かが分かります。

 曼荼羅の中心にいらっしゃり、すべての仏の根源である大日如来です。

 

 「マニ」とは摩尼宝珠のこと。お地蔵さんの手なんかにもある宝の珠です。

どんな願いもかなえてくれる珠のことです。

 

 「ハンドマ」は蓮のこと。仏教ではお馴染みの花です。「泥中の蓮」とも表現

されるように、清浄さの象徴です。

 

 「ジンバラ」は光明のこと。私たちの無明、迷いや煩悩を取り去って、進むべき

正しい道を照らしてくれる光のことです。

 

 この三つは、大日如来の様々な徳を表しています。

 

 「ハラバリタヤ」は「転成」などと訳されます。

 私たち衆生を、ダメダメな存在から素晴らしい存在に変えてくださるように、と

いった感じでしょうか。

 

 「ウン」は、聖音で、特別な意味はなく、訳さないでよいでしょう。

 

 これらをまとめると

  最上の仏である大日如来

  そのあらゆる素晴らしい仏徳をもって

  われわれを、正しい道に導いてください

という感じでしょうか。

 

 自分たちが葬儀で光明真言を唱えるのは、亡者が仏さまの世界に帰るにあたり、

それにふさわしい身づくろいとして、世俗の汚れを取り除く為です。

 そして、迎えに来てくださった仏さまとともに、迷わずに旅立つことができる

ように、光の道を用意しているのです。

 

 また、どんな仏様でも光明真言でOKというのは、あらゆる仏様が、大日如来

様々な徳を専門化した分身、化身であると考えられるからです。

 

 というわけで、このような気持ちで真言を・・・といっても難解かもしれないで

すね。

 

 在家勤行次第の光明真言の前に、このような言葉があります。本当は真言

唱える前に、これをお唱えするのが良いのかもしれません。

 

 となえたてまつる光明真言は 大日如来の萬徳を二十三字にあつめたり

 おのれを空しゅうして 一心にとなえたてまつれば

 みほとけの光明に照らされて 三妄(まよい)の霧おのづから霽(は)れ

 浄心の玉明らかにして 真如の月まどかならん

 

 これがヒントになるのではないでしょうか。

 

 仏さまの光に包まれて

 自分も仏さまのような穢れなき存在になる

 そして、自分が誰かの光明になる

 

 そんな気持ちで真言をお唱えすることができれば、仏さまの気持ちになる、と

いう「意密」が完成です。

 

 みなさんも、かなりなめらかに光明真言をお唱えされるようになってきたと思い

ます。

 今度は、それに気持ちものせて、立派な三密行としていただけると良いかと思い

ます。

 

※ 令和五年五月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。