終息?収束?

 伝聞になってしまうのですが、ある宗門大学の先生(立派な僧侶でもいらっしゃいます)が、真言宗の僧侶ならば「コロナ終息」ではなく「コロナ収束」と表記すべきであると仰っていたそうです。

 

 「終息」とは「完全に制圧すること」を指すのに対して、「収束」は「ある程度落ち着くこと」という意味です。

 疫病である以上、完全に無くなってくれた方がいいじゃないかと思うかもしれません。しかし、その先生の意図するところは別のところにあるように思います。

 

 自分が、現在進行形で受けている伝授に、佐藤隆彦先生による「疫病終息の祈り伝授」というものがあります。

 タイトルは「終息」となっていますが、その中で、繰り返されて教えていただいているのは、疫病を「やっつけるのではない」ということです。

 疫病を流行らせているのもれっきとした神様で「行疫流行神」という方です。

厄介な神様ですね。まあ、死神や貧乏神という方たちもいらっしゃいますから。八百万といわれる神様たちもバラエティに富んでいます。

 真言僧は、そんな神様をやっつけるのではないのです。まず、その神様も、そんな存在になったことで苦しんでいると見るのです。ですから、自分たちは、供養して、救ってあげるのが本義であるというのです。

 実際、普段の行の中で、仏様だけではなく神様にも感謝する部分があります(「神分」)。その中で、毎回「当年行疫流行神等」として供養しています。

 

 「終息」と「収束」ではないですが、「除霊」と「浄霊」も似て非なるものです。

この場合、浮かばれない霊がいたら、邪魔だといって取り除くのではなく、供養して本来向かうべきところへ導く「浄霊」こそが理想です。

 

 自分は経験したことがありませんが、葬儀で、強い未練や怨み等の理由から、引導を渡されることに対して激しく抵抗する亡者の場合でも、まずは必死で供養することが大切で、無理やり撥遣(はっけん)するのは最後の手段と聞きます。

 

 もしかすると、力づくで白黒つけるというのは日本人の心情としては受け容れにくいのかもしれません。

 仏教に限らず、神道でも、怨霊を鎮めて、むしろその大いなる力を「有効活用」してもらうという「御霊信仰」があるくらいですから。

 だからこそ、いっときパワーワードだった「排除します」という言葉に対して、拒絶反応を起こす人が多かったのかも知れません。

 

 白黒をつけないということでは、チェスと将棋の違いも、日本人の価値観を表しているかも知れません。

 将棋では、相手からとった駒を自分の手駒にできるのに対して、チェスではそうはいきません。これは、駒の動きの違い以前の、根本的なルールの違いです。

 これには、農耕民族か騎馬民族か、ということも影響しているのかも知れません。

 つまり、農耕民族では、たとえ敵であっても降伏したものは労働力として活用できるため大切に扱い、騎馬民族であると、降伏した敵は、食糧の無駄で、移動の妨げになるから邪魔でしかないと考えるというわけです。まあ、おおざっぱな話ですし、日本民族自体、江上波夫先生によると騎馬民族由来ということですから、聞き流してください。

 

 コロナを絶対悪として、現状を最低最悪のものとして否定するのではなく、この状況だからこそ気づくこと、得られるものというのも何かあると信じたいです。

 

 "No Rain, No Rainbow"

 雨が降らなければ虹は出ない、ということわざです。

 ただし、ここでいう雨の後の、素晴らしい虹というのは自然発生的なものではなく、私たちの心次第で作り出すものなのかもしれません。

布施は100×1よりも1×100

 先日、ある業者さんの依頼で導師を勤めた葬儀を終え、帰ろうとすると、参列者のお一人から声をかけられました。なんと、以前に葬儀をしたときの喪主さんでした。本当に偶然です。というのもその以前の葬儀と言うのも、とあるお寺の下請けの下請けみたいな形で行ったものでしたから。意外と、法務を通じて多くの方と縁を結ばせていただいているのだと実感いたしました。

 

 前にも書いたかもしれませんが、拙寺は檀家が少ないですので、檀家さん以外の方の葬儀や法要を引き受けています。むしろ、そちらの比率の方が高いです。

 Facebookをご覧いただいている方なら、結構な頻度で、遠方での法務をこなしているのをご存じの通りです。

 

 多くの檀家を抱えて、ドーンと構えていれば、黙っていても高額なお布施が集まるお寺さんなんかから見れば、新幹線を利用すれば赤字になりかねない法務に、バスやら在来線を乗り継いで必死で馳せ参じる姿は滑稽に見えるかもしれません。

 

 お布施と同じようなもので、勧進というものがあります。お布施と異なる点といえば、寺の修復や仏像の建立といった風に、目的が決まっていることです。

 ただ、もらうだけでは申し訳ないので、エンターテイメント性を加えたのが「勧進能」ですし、射幸性を煽って盛り上げたのが宝くじの原点にあたる富くじだったりします。

 昔、ある勧進僧が豪商などを巡って効率よく大口の寄付を集めようとしたところ、師僧に怒られたそうです。というのも、勧進はお金を集めるだけでなく、できるだけ多くの人に仏縁を結んでもらい、その縁を深めていくという目的があるからです。ですから、金額が少なくて、手間がかかろうとも、なるべく多くの方から布施を頂くことが価値があるというわけです。

 

 話は変わりますが、袈裟には色々な種類があります。

 袈裟は「福田衣」ともいうように、あぜ道で区切られた田んぼが組み合わさっているようなデザインをしていて、五条袈裟、七條袈裟や二十五条袈裟などといった種類があります。

 ここでいう「条」は袈裟が縦方向に何分割されているかを表しています。ですから五条袈裟に比べると二十五条袈裟の方は、より細かい布を数多くパッチワークした模様になっています。

 そして、袈裟としての「格」は条数が多いほうが上です。

 

 また、袈裟は「糞掃衣(ふんぞうえ)」とも言います。

 最初は袈裟を作る際には、人からいただいたぼろ布を使いました。再利用しつくされた布ですから、洗ってもなかなか汚れがとりませんし、破れているところも多いわけです。ですから、使えそうなところを切り取って縫い合わせて作ったのが始まりです。

 ですから、前述のように田んぼのような模様になりますし、色も「糞掃衣」といわれるように茶色や木蘭といった薄汚れた色が如法というわけです。

 今では、ただのデザインになっていますし、金糸どころかプラチナ糸を使っている袈裟なんかもあります。昔のお坊さんが知ったら苦笑いすることでしょう。

 

 つまり、条数の多い袈裟の方が「格上」とされるのは、それだけ多くの方からの布施として布を頂いて作られた徳の高い袈裟だからということなのです。

 

 「縁なき衆生は度し難し」とはお釈迦さまの言葉です。

 

 葬儀の簡略化が進んでいます。自分もここ数か月で導師を勤めた葬儀の大半は、通夜のない一日葬でした。また、火葬炉の前で簡単なお経をあげて見送るだけという炉前読経も何件かありました。

 そのことをただ嘆くのでは間違っているのかもしれません。

 むしろ、こんなコロナ禍や宗教離れ…などの逆境にあっても、何らかの形でできる限りの供養をしたいと思ってくださることはありがたいことです。

 普段は、仏教なんかに興味を持っていない方たちでも、仏教にふれることになる数少ない機会が葬送の場面です。

 それすらも失われそうな気配がある中で、負担の少ない形の葬送を選択できるようになったことで、仏縁を持っていただける機会をいまなお多く頂けている現状には感謝しています。

 

 せっかくいただいた機会です。遺族の方にちゃんと寄り添える葬儀をすることで、「仏教も捨てたもんじゃないなぁ」「ちょっと仏教を勉強してみようかな」と思っていただけるように工夫しなくてはならないと思います。

必要な時間はそれぞれ

 遠い昔の記憶ですが、大学で刑法を習ったときに、いつから「人」となり、いつ「人」でなくなるのか、という話がありました。

 始期についていえば、「堕胎罪」の客体となるのか、「傷害罪」や「殺人罪」の客体となるのかの問題になりますし、終期についていえば、どこからが「死体損壊罪」になるかという問題です。

 

 終期について、20世紀前半以降は、三徴候説といって、呼吸停止(呼吸の不可逆的停止)、心停止(心臓の不可逆的停止)、瞳孔散大という3つの徴候をもって人の死の診断基準とするものが一般的です。

 呼吸停止を伴わない所謂「脳死」を死に含めるかどうかで争いがあるのはご存じの通りです。

 

 かつて日本では人が亡くなった(ような)状態に陥ると、まずは「反魂」といって、死者の魂を肉体に戻して蘇生させようとしたそうです。そして、どうしようもないとなった時点ではじめて死者として扱い、「鎮魂」の作法に移行したそうです。

 今でも、「末後の水」までは生きている人として扱ったりしていますね。

 

 「死」をどこかの瞬間に限定して、その瞬間から「人」が「遺体」となり、「家族」が「遺族」になると線引きすることがそもそも不自然なのかも知れません。

 さきほどの三兆候説などを用いて死の瞬間を決めるのは、あくまでも社会における便宜上のことにすぎないでしょう。

 

 実際、下級審判決ではありますが、すでに死んでいるのですが、まだ生きているような状態の人を殺そうとした事案について「殺人未遂罪」が成立しています。

 すでに死んでいる以上、どう頑張ってみてもあらためて命を奪うことは不可能ですから、「不能犯」(どう考えても危険性がないので、犯罪が成立しないケース)となってもおかしくはないのですが、そうではないのというのも、心情的には理解できます。

 

  死を迎えたあとも、「曖昧な期間」があります。

 四十九日がそれです。

 インドでは、この期間は「中有」といって、死でも生でもない期間としています。この期間を終えると、無事に次の生に輪廻すると考えています。そして、その輪廻から逃れるために目指すのが「覚り」というわけです。

 ですから、仏教原理主義者でインド仏教以外は仏教に非ず、という方は、四十九日以降の一周忌だとか三回忌だとかをやることはナンセンスだと仰るわけです。だって、もう生まれ変わってしまっているわけですから。

 

 ただ、日本の仏教の考え方は少し違っています。中国での十王思想といった、死後に何回も裁判を受けるという話から、遺族が「追善供養」することで、弁護側の証人として、情状酌量を願い出るかのような効果を生じて、無事に極楽行きを勝ち取るのだという考え方になります。日本では、さらにチャンスが三回増えて、十三仏信仰でおわかりのように「十三審制」という裁判の長期化がされているわけです。

 

 ここで、「葬儀の時に成仏したんじゃないのか」とツッコミを入れる方はよくわかっておられる方です。

 その通りです。自分たちも葬儀の際には、成仏してもらえるように色々なことをして引導作法をしているわけです。

 ただ、成仏したと言っても仏様としては「若葉マーク」というわけです。ですから、この場合、十三仏は裁判官というよりも、ヨチヨチ歩きの仏様を少しずつ指導して、立派な仏様にしてくださる先輩と考えた方がよいでしょう。

 

 そして、この期間は亡くなった方の為の時間であるだけではなく、残された方にとっても大切な時間です。

 真言宗ではあまり使わない表現ですが、回忌について下のような呼び名をすることがあります。

  初七日・・・初願忌

  二七日・・・以芳忌

  三七日・・・洒水忌

  四七日・・・阿経忌

  五七日・・・小練忌

  六七日・・・檀弘忌

  七七日・・・大練忌

といったものです。

 細かい意味の説明は致しませんが、故人と遺族の進むプロセスを上手に表現したものになっています。

 故人の冥福を最初に願う初願忌で勇気づけられた故人は、「芳舟」に乗り彼岸に渡り、少しずつ仏様として修行をされます。そして、四十九日において、大いに修練されたことをもって、仏様として「仮免許」から、一人前の仏様になるというわけです。

 一方で、遺族の心の動きをも表しています。たとえば、四十九日の大練忌は、「未練」をたちきり「大いに練る(=悟る)」という意味で、遺族が故人の死を受け入れる時期という意味でもあります。また、百か日を「卒哭忌」とも言います。こちらは文字通りの意味です。

 

 古来より、大事な人の死を受け入れて日常に戻るのには、これくらいの時間を要すると考えられてきたということでしょう。

 

 ただ、これもあくまでも「平均値」や「理想値」にすぎません。

 中には、「四十九日を過ぎても納骨もしないと、死んだ人が迷う」とかいう、出典不明のことを言ってくる人もいて、遺族の方を悩ませることもあります。また、どこで聞きつけたのか、霊園や墓石のパンフレットやDMが送られてきてプレッシャーをかけてきたりします。

 

 そもそも葬儀関係のことは、仏教由来の儀軌や経典によるものではなく、習俗によるものが大半です(中には三日以内に納骨するような地域もありますし)。ということは、地域や時代によって同じである必要はありません。さらに申し上げると、故人と遺族の関わり方も様々ですし、考え方も様々です。

 

 無理にどこかの時点で「家族」から「遺族」へと切り替える必要はないのではないでしょうか。

 むしろ、いつまでも「家族」であり、「遺族」でもあるというのが自然なのかもしれないですね。

 

 

 

不慳貪

 今日も十善戒の話の続きです。

 今日からは「心」の戒律です。

「不慳貪」とは、ごく簡単に言えば、物惜しみをしないこと、欲張らないことです。

 

 以前に、塾で教えていたときのことです。

 同僚の社会の先生が授業を終えて職員室に戻ってきて、こんなことがあったと話してくれました。

 小学校六年生の社会の授業で、世界恐慌の単元だったそうです。

 東北の寒村の子供が、大根を丸かじりして飢えを凌ごうとしている写真を紹介したそうです(皆さんも教科書で見たことがあると思います)。

 それを見たひとりの児童が「あほや、あほや」と言ったそうです。

 普段はおとなしい先生が、ものすごい剣幕で「誰がアホやねん!」と怒鳴りつけたところ、さすがにその子もまずいと察したようで、とっさに「(アホなんは)僕」と言ったそうです。

 

 何か、現代の風潮としてお金を持っていることが偉い、貧乏なのは才覚が無い、みっともないことといった価値観が蔓延しているような気がします。「清く 貧しく 美しく」なんていう言葉は過去の遺物といったところでしょうか。

 さらには、いかに楽して手っ取り早く上手に稼ぐかという点が格好良さの基準となっていて、汗水たらして働くことが美徳ではなくなっているようにも思います。

 

 もちろん、お金を稼ぐことが悪いわけではないですし、商才のある人を見ると素直にすごいなあと思います。お寺だって、商売上手なところがありますし。

 しかし、真のお金持ちが尊敬されるのは、お金を持っていることではなく、いかに上手に使うかということではないでしょうか。江戸時代の豪商の中には、幕府による社会保障などというものが機能していない中で、民間レベルでのセーフティネット的な役割を果たしていた者も結構いたようです。

 

 といっても、あやしい宗教(もどき)みたいに、全ての財産を教団に寄付して・・・とかいうつもりはありませんし、そもそも「欲」を否定するつもりもありません。

 むしろ、「欲」を上手に原動力とすることを真言宗では説いています。

 

 欲にも「悪い欲」と「良い欲」があります。「少欲」と「大欲」ともいいます。

 悪い欲は面倒です。満たされることのない無間地獄のようなものです。

 のどが渇いたからといって、海水を飲み続けるようなもので、永久に満たされることがない欲です。

 はたから見ていると裕福で何の苦労もないだろうな、と思える方が、まったくそうではないということは珍しいことではないですね。

 

 前にも申し上げたと思います。百パーセント他人の為なんていうのは聖人でないと無理です。念珠をするとき、みなさんは「自分方向 他人方向 自分方向」と擦ります(高野山真言宗の在家の方向けの話です)。

  それと同じように三分の一だけでも、人の為と思って欲をむけることができれば十分に「大欲」といえるのではないでしょうか。

 なかなか難しいかもしれませんが、こういう機会に不慳貪戒を確認することで意識していければと思います。

 

※ 令和三年六月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

 

 

 

聖地は自分で創るもの

 かつては「聖地巡礼」といえば、四国のお遍路さんや西国巡礼、海外ならばフランスからスペインにかけてのキリスト教の巡礼であるサンティアゴ・デ・コンポステーラなどをイメージする方がほとんどだったと思います。

 

 しかし、現在では、ネットで検索しても分かるように、漫画やアニメの舞台やモデルになった場所をファンが訪れることを指すことの方が一般的になりつつあるようです。

 かくいう自分も、秩父音霊場を巡った際には、「あの花」の聖地である17番札所である定林寺さんが一番テンションが上がってしまいました。何せ「聖地×聖地」ですから。

 

 静岡でも沼津が「ラブライブ」の聖地として、観光として成り立っていたりします。

 寺のある牧之原周辺も無縁ではないらしく、「ゆるキャン△」というアニメの影響で御前崎灯台周辺や掛川のカフェが「聖地」として認知されているようです。

 

 牧之原についても「DR.STONE」という漫画で相良油田が登場していますので、アニメ放送の後は「巡礼者」が多く訪れるのかもしれません(第三期に期待です)。

 

 アニメや漫画を見ていない、見ていても魅力を感じていない人にとっては、何の変哲のない場所が、特定の人にとっては聖地になる訳です。

     

 人は、同じ景色や出来事に遭遇しても、見え方や感じ方はそれぞれです。それは、私たちが感覚器官だけで見たり聞いたりしているのではなく、「識」という心のフィルターを通して見聞きしているからとされます。

 

 お大師様のことばに「医王の目には道に触れて皆薬となる」とあります。医学の知識のある人にとっては道端の雑草であっても薬草となるということです。続けて知識のある人にとっては路傍の石でも宝石となるとも仰っています。

     

 この娑婆の世界が苦に満ちていることはお釈迦さまの説いておられる通りです。それを世俗的な楽しみで上書きしたり、相殺しようとするのではなく、視点を変えて、「聖地」にしてしまおうというのが仏教ではないでしょうか。

 

 真言宗では、大日如来のいらっしゃる仏の世界を「密厳浄土」と言います。

 この浄土の定義づけも色々です。「こことは違うどこか」という意味で使われる場合もあるのですが、「この娑婆の世界も含めた世界」という意味で使うこともあります。 

 こんなめんどくさい、醜いものに満ちた世界のどこが「浄土」なんだ、と思われるかもしれません。

 

 六道輪廻する世界は「天、人、修羅、畜生、餓鬼、地獄」です。

 天人の世界なら、「ほぼ浄土」と言えるかもしれませんが、天に生まれてもゴールではなく、寿命がくれば、またどこかに転生しないといけませんから、修行をする必要があります。

 しかし、天の世界は満ち足りているので、修行するには向いていない「ぬるま湯」環境だという方もいます。

 

 その点、人間の世界は蓮の花に彩られ、天女が飛び回る世界ではありませんが、心を鍛錬するにはもってこいの最高に面倒くさい場所と言えます。

 

 よく「人生は遍路なり」なんていいます。

 自分も、四国遍路は、区切り打ちですが、歩いて二巡しています。興味のない方にとっては、わざわざ、お金も時間も体力も使って馬鹿馬鹿しいことを、と思うかもしれません。しかし、経験のある方なら分かると思いますが、何とも言えない喜びがあるんですよね。

 

 この面倒くさい娑婆の世界も、仏の世界の一画に作られた、修行に特化した「聖地」と思えば、楽しくはならないにしても、少しは楽になるかもしれません。

 

※ 令和三年五月刊 寺報『西山寺通信』の内容に加筆修正したものです。

不両舌

 今日も十善戒の続きです。

 言葉に関する戒の最後に出てくるのは「不両舌」です。

 

 よく、文字通りに「二枚舌を使わないこと」と説明されていることもあります。

 しかし、実際はそう単純ではありません。

 ある人にはAと言い、別の人にはBと言うことにより、仲違いさせることがNGという意味です。

 

 人の和合を乱すような言葉を使うな、といった方が良いかもしれません。

 つまり、この戒が目指すところは、人、さらにはあらゆる生命の和合、調和です。

 そして、その前提として、あらゆる生命の平等を忘れてはいけないということです。

 

 ただ、この「平等」という言葉は曲者です。

 たとえば、平等といっても「機会の平等」なのか「結果の平等」なのかでは大きく意味が異なります。

 学校の運動会なんかでも、徒競走で順位をつけずに「みんな一位」なんてことがあると聞きました。これは結果の平等ですよね。運動会だけは輝けるチャンスと思っている子にとっては迷惑な話です。

 スタートラインを同じ位置にして、公正にレースをしたうえで順位付けするのが、「機会の平等」ということですね。

 

 ところで、先日、確定申告をしたかと思ったら、今度は固定資産税、次に自動車税ですよね。

 税金の目的の一つも「所得の再分配」という名の「平等化」です。

 たとえば、確定申告では累進課税方式で、高所得の人には高い税率で税金を納めてもらい、それを福祉や公的扶助にまわすことで、貧富の差を縮めているわけです。

 日本の場合は、スタートラインにすらつけない人や、後方からのスタートになる人の位置を前にずらしてあげるという程度の「機会の平等」といえるのではないでしょうか。

 海外の国には、累進課税の比率が大きかったり「贅沢税」をしっかりとるなど、高所得者には厳しく、社会福祉がものすごく充実しており低所得者に手厚いところもあるようですが、このようなことを極限まで突き詰めて貧富の差を無くしてしまうというのなら「結果の平等」ですね。

 ただ、こういう国では、向上心や労働意欲がそがれてしまう弊害もあるようです。赤の他人の為に苦労して働くなんてあほらしくなるんでしょうね。

 

 平等の反対の言葉は何でしょうか。「不平等」というのは無しにしてください。

 「差別」が思い浮かんだ方もいるのではないでしょうか。

 「差別」というとネガティブなイメージがつきまといますが、仏教での「差別」はそうではありません。仏教では「しゃべつ」と読みます。

 それぞれの人や物の個性をちゃんと評価、考慮するという意味です。

 

 慈雲尊者は

「山を削って、谷を埋めてまっ平らにするなんていうのは平等ではない」

と仰っています。

さらには

「山は高いからこその平等である。海は深いからこその平等である。」

とも仰っています。

 

 平等が間違った方向に使われて、みんなと一緒、同じでないと生きづらい社会になってはいないでしょうか。

 平等の押し付けで、相手の個性まで否定することになっていないでしょうか。

 

 「みんな一緒に仲良くしましょう」というよりも、「みんなバラバラだけども仲良くできる」のが仏教者が理想とすべき世界だということなのでしょう。

 

※ 令和三年五月の薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

 

 

余韻こそ贅沢

  以前、塾講師をしていた頃の同僚の方々は個性豊かな面々でした。

 その中のお一人は、アマチュアで指揮者をなさっているとのことでしたが、こんなことをおっしゃっていました。

 「人生で至福の時と聞かれたら、演奏が終わった瞬間の静寂と答えるよ。ときどき、その瞬間を大切にせずに速攻で拍手するやつとか腹立つんだよね。自分はこの曲がここで終わるのを知っています、ってアピールしたいのかって。」

 

 先日、とある葬儀の導師をつとめたときのことです。

 告別式が終わり、出棺までの時間、お花入れや形見の品が棺に納められ、最後のお別れの時間でした。

 まだ、お若い方だったこともあり、遺族の方もなかなか棺から離れがたく、喪主さまも、それまでこらえていたのでしょうが、堰を切ったように声を上げて泣き始められました。

 すると、司会の方が平然とステレオタイプで、

 「お名残は尽きませんが、出棺のお時間です。後方より棺のお蓋が参ります・・・」

とはじめたのには、少しびっくりしました。せめて、もう少し寄り添った言い方や対応があるだろうにと思ってしまいました。

 

 

 たしかに、火葬の時間は決まっています。それならば、その分、式自体の時間を前倒しすればいいじゃないか、と思うかもしれませんが、時間ごとに使用料が決まっていることもあり、そう簡単ではありません。

 自分たちの読経時間も、葬儀社さんと打ち合わせをして事前に決めてあります。

 

 ときには、

 「今日は、お花入れの時間をゆっくり取ってあげたいので、皆さんが集まり次第、少し早めに開式してもいいですか。」

と提案されることもあります。

 あまりに長く時間をとりすぎて、手持ちぶたさになったようにも見える遺族の方たちが、故人様の思い出話を、時には涙し、時には笑って話されるのを見るのも良いものですし、素敵な「餞別」だと思います。

 

 こちらも、少人数であったり、小さな子供さんがいたり、逆に高齢の方が多いような場合には

 「お経の時間を少し短くして、その分、すこし長めにお話をさせていいですか。」などと提案したりもします。

 

 葬儀では、授戒と引導作法の部分が最も大切なのは間違いありません。

 では、何のためにお経をあげるのでしょうか。

 

 よく仏様と衆生の関係を「仏日の影」などといいます。

 いくら、仏様が近くにいらしても、私たちの心の池の水が澄んでいなければ、そこに仏様が影として映ることは無いわけです。

 では、私たちの心を清らかにする手っ取り早い方法は何かというと、ひとつには、美しい言葉を話すこととされます。

 そして、その美しい言葉の代表こそ、仏の言葉であるお経です。

 

 そういう意味で、お経をあげること自体に功徳があるといえますが、仏様を近くに感じて、お話をしやすい環境を整える手段という重要な意味もあります。

 

 そのように考えると、先ほどの指揮者の方の話ではないですが、お経も唱えているときよりも、終わった瞬間こそが至福の瞬間なのかもしれません。

 一番、自分の心の汚れがそぎ落とされて、仏様を身近に感じることができる瞬間なのですから。

 

 お経を一生懸命唱えてくださるのはありがたいですが、むしろ、そのあとの時間を大切にしていただければと思います。

 体験として、心が軽くなったり、仏様との一体感といったものがあると、一層、読経の悦びに気付くはずです。また、自分に合うお経なんていうのを見つけるのもいいかもしれませんね。