念(おも)いを継ぐ

 先日、伝授で一緒になったH師から「Nさんって知っていますか?」と言われました。N師というのは、自分が昔、一緒に加行をした方の名前です。そして、同じ道場でH師も加行を終えているのですが、10年以上時期がずれているので面識もないはずです。なぜ、Hさんがこんなことを聞いてきたか不思議に思っていますと、次のようなことでした。

 先日、Nさんは亡くなられたそうです。Nさんは在家出身の方で、寺を持つこともなく、ご家族にも僧侶になろうという方がいるわけではないので、法具や法衣をとある遺品整理の業者に出そうとしたそうです。ところが、価値を知らないのか、分かった上で阿漕なことをしているのか分かりませんが、トータルでわずか数万円と言われたそうです。さすがにご遺族もこれはひどいだろうということで、さらに色々な業者にあたったところ、Hさんと縁のある業者に巡り合ったそうです。その業者がHさんに連絡して、相応の金額で引き取ることになったとのことでした。

 僧侶も数え切れないくらいいる中、真言宗の僧侶の中だけでもとてつもない人数がいる中で、同じ修行道場の先輩から後輩に法具や法衣が受け継がれることになったのは、本当に奇跡に近い偶然に見えるかと思います。しかし、仏教には偶然はありません。因と縁があって結果が生まれるだけです。

 こんなことがあったので、自分もN師のことを思い出してみました。行の最中でもよくしゃべる方だったので(当然NGです)、正直苦手な方でした。ただ、仏教、密教に対する知識はすごいものがありました。10年以上前に、蓮定会という寺の同窓会のようなものでお会いしたときは、一年間高野山に住んで高野山大学の教学実習科目(声明や布教など)の単位を取ったこと、大学院も修了したこと、そして学補(高野山大学や大学院を卒業することで特定の僧階に任じられること)により大僧都になったことの報告を受けました。今回、H師が大師教会を立ち上げたことをうかがい、ホームページを拝見したところ、N師から受け継いだと思われる見事な紫衣と納衣七條を着ておられたので、N師はその後、僧正になられていたのでしょう。その後にお会いした時には、自分が西山寺の住職になったことに驚かれており、ご自身も寺を手に入れようと意欲を持たれたようでしたが、それがお会いした最後となりました。

なかなか新品で買えるものではないです・・・

 自分も、法衣、特に袈裟は高価であるため中古を買うことがあります。傷んでいるものは、へたくそながら自分で手縫いやらミシンやらで補修して着ています。あるお坊さんには、「中古の法衣なんて念が入っているから駄目だ」といわれたこともあります。その方は、水子供養や除霊など「単価の高い」法務をされている方でしたので、新品の法衣を躊躇なく手に入れることができるのでしょうが、自分には無理です。また、貧乏僧侶の負け惜しみではないのですが、自分の場合、その「念」が目的だったりします。まだ駆け出しだったころには特にだったのですが、葬儀をしても、未熟な自分がちゃんと引導を渡せているのか不安なこともありました。そんなとき、袈裟や法衣の前の持ち主である「先徳」にどうか力を借してくださいと願っていました。中には、どなたかの供養のために寄進された袈裟もあり(裏に「為○○」等と刺繍が入っています)、自分が引き続き着させていただくことで、その方の供養を続けることにもなると考えています。

 

 さっき偶然は無いと申し上げました。N師も折角の膨大な知識を生かして、まだまだ二利双修に励みたかったんだと思います。でも、それが叶わない以上、その「念い」を同じ修行道場の後輩に託したのだと思います。

 肉体は消えても、念いは残ります。新たに大師教会を立ち上げたH師が、N師の念いを受け継いで、真っ当にお大師様の教えに邁進されることを祈念しています。

 

 拙寺の地域では、この七月がお盆の時期です。皆様も大切な方が残された何かを前にして、その方の念いに心を向けていただければと存じます。

 

施餓鬼2026 四恩に感謝する記念日

 「夫れ此の身は虚空より化生するに非ず。大地より変現せるに非ず。必ず四恩の徳に資けられて、是の五陰の体を保つ。謂ふ所の四恩とは、一には父母、二には国王、三には衆生、四には三法(宝)なり。」

 

 お大師様は四恩の大切さを説いておられます。四恩とは父母(ぶも)の恩、国王の恩、衆生の恩、三宝の恩です。

 最初の父母の恩は説明を待たないでしょう。育ててもらった恩もありますが、そもそも父母がいなければこの世に存在できていないわけですから。ただ、どうしても親を許せない、といった方もおられるかもしれません。そこを無理に、そんな親でも感謝しなさい、といった無責任なことを申し上げるつもりはありません。そんな方は、広くとらえて、ご先祖様に感謝すればよいでしょう。私たちが今ここに存在するためには、途方もない命のリレーがあったはずです。今みたいな豊かな時代ばかりではありませんでした。そんな中でなんとかつなぎ留められてきたこの命は奇跡だと言えるでしょう。

 次は国王の恩です。昔の表現ですから「国王」という言葉を用いていますが、「社会」と言い換えればよいと思います。政治に不満を漏らす方もおられますが、戦争のない今の日本、社会保障制度や社会福祉が整えられた社会です。歴史を少しさかのぼれば、そんなものどころか、人権すらも保障されていなかったわけです。人身売買すらあったわけです。それを考えると今の社会には感謝すべきでしょう。そして、社会そのものだけではなく、そういう社会を築き上げてきてくれた先人たちにも感謝しなくてはならないでしょう。三歩進んで二歩下がるようなじれったい進歩だったかもしれませんが、そういった方たちの試行錯誤によって、より良い社会になってきたことは間違いないです。

 そう考えると、衆生の恩は、現在自分を取り巻く世界で「おかげさま」の存在である人々だけではなく、過去の「おかげさま」の方々にも向けなくてはならないでしょう。

 

 そういう意味では、この盆供養に合わせた施餓鬼法要は四恩に報じるものといえましょう。先祖だけではなく、この社会を支えてくださった名も知らぬ「おかげ様」の方々で、死後供養されずに苦しんでいる方々まで広く救うのが施餓鬼法要です。

 

 いつも四恩に対して、忘れることなく感謝すべきなのですが、ついつい忘れがちな私たち。「父の日」「母の日」以外でも当然親には感謝しなければないように、「敬老の日」でなくても高齢の方を敬い、いたわらなければならないのと同様です。記念日というのは、改めて感謝の気持ちをしっかりたもつためのものです。

 お盆の期間、改めて、今の自分を存在させてくれているあらゆる存在への記念日だと思って過ごしていただければと存じます。

 

※ 令和8年7月5日 施餓鬼法要での法話に加筆修正したものです

 

胡瓜加持2026 メッセンジャーの矜持

  時々、伝授のため寺を不在にすることがあり、ご迷惑をおかけしています。いまは、中院流の一流伝授、悉曇では慈雲流、声明では南山進流の一流伝授を並行して受けています。以前にもお話しいたしましたが、一流伝授とはその流についてすべて伝授してもらうことです。高野山真言宗では、中院流で加行をし、伝法灌頂ののち阿闍梨となります。しかし、加行で授かる内容は本当にごく一部であり、本当にその法流の真髄を知るには、一流伝授を受ける必要があります。当然ボリュームも膨大で、加行でしたら約100日の短期集中ですが、一流伝授ではそうきいきません。もちろん連続では無いのですが、今回の伝授であれば全21会、三年越えとなります。そして、一流伝授をうけることが、高野山真言宗で大阿闍梨となるための条件のひとつでもあります。そういうこともあり、受者の中には、ほかの伝授では「授ける側」を任される立場の大徳も見受けられます。とりあえず、自分は、道場ではあたりを見回して、挨拶すべき方を見つけては失礼なきようご挨拶をして、そののちは大人しく目立たないように過ごしています。

 でも、なかには怖いもの知らずの「大物」の方もおり、大声で話す内容が、聞きたくもないのに、耳に入ってくることがあります。そのなかのいくつかを。

 

 「病気平癒の加持祈祷もしているけどね。でも本人が変わらないとどうにもならないよ。かわいそうだとは思うけどね。」

 すごいですね。自分も薬師様を本尊とする寺の住職として、病気平癒の祈願を責務のようにさせていただいています。でも、治らなかったり、亡くなられたりということがあると、自分の力不足のせいではないかと落ち込みます。たしかに、加持祈祷とは、祈願主と仏様を結びつけること。病気を治すのは仏様であって、行者ではありません(行者自身が治している、と言っているのは仏教ではありません)。それでもやはり自分は割り切ることはできません。この方は大きな祈願寺の役僧らしいので、いちいち祈願主の思いを背負ってられないのかもしれませんが。

 自分が高校受験のとき、東寺さんで合格祈願をしていただきました。合格発表の日、なんとそのお坊さんから合格しているとの電話を頂いたんです。その高校が洛南高校で、東寺の境内に隣接しているとはいえ、わざわざ見に行ってくださったんですね。そして、自分のことのように嬉しく報告してくださったんです。東寺で祈願をする方なんてたくさんいらっしゃるだろうに、祈ったら終わり、ではないそのお坊さんに感激しました。今でも自分にとって尊敬というか目標としているお坊さんの一人です。自分も、祈願をされる方の苦しみや悩みの千分の一でも万分の一でも共有できる僧侶でありたいと思っています。

 

「息災しか使うことはないよ。増益なんて使うことないよ。」

 修法には種類があります。息災というのは文字通り、災厄から身を守る修法で最も一般的なものです。加行で伝授される護摩も息災護摩です。それ以外には増益(そうやく)、敬愛、降伏などがあります。息災が、マイナスをゼロに戻す、あるいはマイナスに振れないようにする感じなのに対して、増益は積極的にプラスにする感じです。以前に薬師護摩の伝授を受けた際の伝授阿闍梨さんは、お薬師様の修法では、病気で命がかかっている方などの祈願を背負っているわけだから、より積極的な増益法で修するのがよいと仰っておられました。それ以来、自分も毎月の薬師護摩は増益護摩で修法しています。

 今回の胡瓜加持なんかも、科学万能の御時世に馬鹿馬鹿しく思う方もいらっしゃるかもしれませんが、自分は、皆さんの祈願を少しでも叶えられるのならば、なんでもやってみたいと思っています。先ほどの薬師護摩の伝授は神戸まで行って受けてきました。胡瓜加持については他流や他宗の伝授によるものです。まだまだ学ぶべきことは山ほどありますし、学んだことはどんどん皆さんに還元したいと思っています。

 

「加持祈祷なんで誰だってできるよ。まあ、コツはあるけどね。」

 今回の一流伝授の中で、『七十二箇条制禁』というものがありました。弘法大師御作といわれる僧侶のNG項目です。その中のひとつにこうあります。

 「無行にして祈祷を致すなかれ」

 普段、しっかりと行をしていないような奴は祈祷をする資格はないとのお言葉です。

 行者は皆さんの願いを仏様に伝えるメッセンジャーにすぎないのかもしれませんが、正確かつ迅速に、そしてしっかりと返信を持って帰るのには、覚悟と努力がいると思います。

 今日も自分にできる精いっぱいでお薬師様、胡瓜菩薩様に願いを届けさせていただきました。返信をお待ちください。

 

※ 令和8年7月5日 薬師護摩&胡瓜加持での法話に加筆修正したものです

 

 

 

 

生前戒名  なんちゃって戒名なんていらない

 先日、檀信徒ではない方から、メールにて「生前戒名」について、質問がありました。「仏教徒として自覚して生きていくために・・・」とか、理由が書かれていましたが、要は、寺に足を運ぶことなく、色々な面倒なプロセスを省いて、戒名がもらえないか、といった内容のようでした。

 「生前戒名」については、本山の会議でも取り上げられたことがあり、戒名を「売る」ような行為が問題視されています。実際、怪しげなサイト(戒名の通販サイトみたいなもの)では、「死後につけるよりも安くつく」なんて訳の分からない文句をうたうものも見受けられます。

 とはいえ、自分も生前戒名を付けたことが無いわけではありません。

 御一方は檀家さんの弟さんでした。遠方に住む新宅(分家)の方でしたが、生まれ故郷の菩提寺に戒名をつけて欲しいとのことでした。実際には、ご本人はあまり長くない様子とのことで、その気持ちを汲み取った娘さんからのご依頼でした。その後、その方は奇跡的に回復され、本家の墓の隣にお墓を建てるために里帰りされた際に、ちゃんと授戒作法をさせていただくことができました。

 別の方は、紹介業者を通じての依頼でした。母親が死を前にしているので、少しでも心穏やかに過ごせるよう戒名を授与してほしいとのことでした。普段は受けないのですが、その思いに心を打たれて引き受けました。この方に関しては、その後、本当に偶然なのですが、自分が葬儀をすることになりましたので、その際に授戒を致しました。

 最後は、自分が葬儀をした方の旦那さんです。最愛の奥様を亡くされたのですが、これを機に、自分も戒名を授かって、仏教的な生き方をされたいとのことでした。先に仏様の世界に帰られた奥様に対して、地上の仏として共に頑張っていただけるような戒名を付けさせていただきました。この方の場合、奥様の49日のときに、授戒を致しました。

 いずれにしても「戒名」という以上、戒を授かってはじめていただくことができるものです。またその際には、戒師のもと、ちゃんとした作法があります。「セルフ授戒」なんてことをいう本もありますが、授戒を受ける機会はそんなに得難いものではありませんから(高野山でも予約なしに受けることができます)、仏様の前で、戒師に従って正しい作法で、受けていただきたいです。さらには、自分で戒名をつけよう、なんてことを書いている本もありますが、ちょっと何を言っているか分からないです。実際、紹介業者から葬儀を依頼された際に、「生前戒名を貰っています」というケースもあるのですが、中には、まともな僧侶ならおよそ付けないだろうな、というものもあり、自分でつけたんじゃないかと疑う場合もあります(戒名をつけるのにも色々と細かい約束事があります)。

授戒作法の次第のひとつです

 

 戒にも色々なものがありますが、葬儀や戒名授与のさいに誓っていただくのは「十善戒」という、戒の中でも最も基本的なものです。上で挙げた高野山の授戒堂で授かるのも同様の戒です。後述しますが、不殺生(無駄に命を奪わない)、不偸盗(他人の物を奪わない)からはじまる十の戒です。

 

 唐の時代、詩人の白楽天さんは、高名な僧(鳥窠道林)にこう質問したそうです。

「仏教にとって最も大切なことは何ですか。」

きっと、ものすごいことを教えてもらえると期待したのでしょう。しかし、答えは意外なものでした。

「悪いことをしないこと。そして、善いことをすることやな」

がっかりした白楽天さんはこう文句を言います。

「そんなの三歳の子供でも分かってることですやん。」

それに対して僧侶はこう返します。

「その通りやな。三歳の子供でも分かること。でも八十の爺さんになってもなかなかできないことなんや。」

 十善戒もそのようなものです。

 

 真言宗の特徴は、自分の中の仏さまに気づくことを重要視している点です。そして、その仏さまを大切にしなさい、という教えです。自分の中の仏さまを大切にするというのは、その仏さまを悲しませないように、仏さまらしく生きる、ということです。とはいえ「仏らしく」とだけいわれてもどうすればよいか分からないかもしれません。ただ、山を登れ、と言われるようなものかもしれません。地図であったり、コンパスであったり、道しるべ等があれば心強いでしょう。そのようなものにあたるのが十善戒です。江戸時代の大徳である慈雲尊者は十善戒こそ、人が人たる道と仰っていますが、仏に向かう道でもあります。道に迷ってしまわないよう、ときどき声に出してみてください(それぞれの内容は過去記事)を参照してください)。難しいお経や真言を唱えることよりも大切なものです。

 

不殺生(ふせっしょう) 

不偸盗(ふちゅうとう) 

不邪淫(ふじゃいん) 

不妄語(ふもうご)

不綺語(ふきご) 

不悪口(ふあっく)

不両舌(ふりょうぜつ) 

不慳貪(ふけんどん) 

不瞋恚(ふしんに) 

不邪見(ふじゃけん) 

 

※ 寺報「西山寺通信」令和8年5月号の内容を加筆修正したものです。

師僧をさがす ~ 高野山真言宗での得度

 立場上、定期的に「得度」について質問を受ける機会があります。このブログでも5年ほど前に何度か触れたことがあるのですが、それから大分時間が経っておりますので、またお話ししたいと思います。

 

 「僧侶」といっても色々な段階があります。

 高野山真言宗でしたら一般的に、得度→受戒→加行→伝法灌頂の流れで「阿闍梨」となります。いつも言っていますが、真言宗で「阿闍梨」というのは、ようやく色々な伝授を受けることができるようになる資格くらいの意味です。正直、ここからが本当の修業ですし、いよいよ密教の面白さが分かってきます。住職でしたら、誰しもが「阿闍梨」ですので、わざわざ阿闍梨であることをアピールする方はあまりいないのではないでしょうか。その先にある「大阿闍梨」となると別ですが。

 見ての通り、「得度」というのは、長い修業のスタートラインに立つことです。

 得度するためには、師僧になってくれる方を探さなくてはなりません。高野山真言宗でしたら住職(阿闍梨であるだけではダメ)であれば弟子を取ることができます。ただ、弟子にしてくれるかは別問題です。師僧と弟子の関係は親子関係みたいに重要なものですから、どこの馬の骨か分からない者の師になってくれるなんて、よっぽどの大きな器をもっている方でないと無理だと思います。在家の方が真言僧を目指そうとする上で、一番ハードルが高いのはこの師僧探しのように思います。

 自分自身も最適解は分かりませんが、色々な入口があることはたしかです。たとえば宗門大学である高野山大学に入る、という方法もあるでしょう。大学に入ったことで、則、得度できるわけではないですが、真摯に密教を学んでいくことで、素晴らしい師僧との縁を頂くことは難しくないはずです。あとは、ここぞという寺との縁を深めることでしょう。高野山内の塔頭でしたら、機会があるごとに宿泊して勤行などに参加してみる。地方寺院であれば、その寺の行事に都度都度、参加するなどです。そのなかで、この人の弟子になりたいと思える方を見つけることです。フィーリングも大切でしょうが、昔から経軌に「師僧にするのにふさわしい方」が記されているので、参考にしてみてください。『大日経』や『蕤呬耶経』のほか、色々なところに見られるようですが、ここでは浄厳和上の『受法最要』の内容を挙げておきます。

 

堅固に大菩提心に安住し(第一)

出家の菩薩浄戒を具足し(在家の人が例え在家菩薩戒を具足すれどもダメ)

聡明にして智慧を具し(その三)

慈悲深重(その四)

衆芸を兼ねて総べて三乗の無量の法門に通達し(その六)

善巧に般若波羅蜜を修行し(その七)

瑜伽を究習して疑謬あることなし(その八)  

善く能く真言の実義を解了し(字義句義ことごとく能く解了す、その九)

善く能く曼荼羅画に通達し(その十)  

その性は調柔にして我執を離れ(その十一)

真言の行において善く決定することを得る(その十二)

 

 なかなか条件が厳しいですが、最低でも「菩提心をもち①」「戒をたもち②」「瑜伽行をよく行じて⑧」「真言をよく理解している⑨」者を師とせよ、と言ってます。お寺に出入りして、立ち居振る舞いを見たり、話を聞いてみると、まずまず判断できるのではないでしょうか。

 

 ただ、忘れてはいけないのは、師僧も弟子を選ぶということです。

 よく、良縁に恵まれない、と不平を言う方がおられますが、では、あなた自身は誰かにとっての「良縁」となっていますか、とお尋ねしたいです。そこで、今度は弟子の選び方も少し紹介しておきます。

 

 もしその弟子が浄戒を持せず、威儀を具せず、生命を愍れまずして、欲しいままにこれを殺害し、ほしいままに仏法僧物をば盗み、淫欲熾盛にして荒逸の度はなく、妄言綺語し、質直語少なく、粗悪の語を好み、楽って両舌をなし、自財を慳恡して、名利を貧求し、他の栄を嫉妬し、諂曲にして実にあらず。  瞋恚猛害に三宝を誹謗し、無因果を発す。  師長を軽慢して猶予不定にして決断の智なく、憍慢して自から高ぶり、浅智昧劣にして法を心に入れず。  慙なく愧なく、酒に耽り肉を嗜み、葷辛を貪りくらい、博戯遊楽し、畋狩漁捕などの悪業あらん・・・・・(以下略)

 

 本当はこのあとにも色々と書かれていますが、身体的特徴であったり、病気のことであったり、身分に関するものだったりですので、意図的に略しました。いずれにしても、こちらもなかなか厳しい条件です。そこで、戒を守り、常に真言行法に精進して、三宝のためならば、命を捨てても惜しくない、という覚悟の者であれば、見た目がどうであれ、徳が高くなかろうと、弟子にしなさい、と言っています。むしろ、そんな機根のあるものならば、見逃すことなく、地球の果てまで追いかけて、弟子にしなさい、とも言っています。

 

 「師僧」といっても広義には一人ではありません。加行の際の伝授阿闍梨さんや、一流伝授をはじめとした様々な伝授での伝授阿闍梨さんなどもお師僧さんたちです。そういう方々が、行者としての方向性に大きな影響を与えてくださいます。しかし、狭義の「師僧」は得度したときの師僧(あとで師僧替えだったり、逆に離弟されることもありえますが)です。先にあげました通り、得度の先は長いですが、本人の意思で自由に進むことはできません。その都度、師僧のお墨付きがないとダメなんです。知り合いの僧侶の方のブログで「得度したものの、先に進めない」という内容を書いたら、アクセスが多かったと聞きました。結構、その部分で苦労している人が多いのかなと思いました。ただ、それは意地悪ではなかったりするんです。まだ、十分な準備ができていない者を、次の段階に進めさせる方が、もっと無責任で意地悪なように思います。先に進ませてくれないことを意地悪と思うか、深い考えがあっての愛情と思えるかは、結局、信頼関係次第なのでしょう。

 

 得度とは、一度死んで、新たな親子関係を結ぶことです。妥協せずに、全面的に信頼できる方を見つけていただければと思います。

いつか立派な仏となるために ~仏らしく生きる

 本日も薬師護摩においで下さりありがとうございます。

 先月の薬師護摩のあと、一週間ほど高野山での駐在布教に行っておりました。金剛峯寺の新別殿や奥の院手前にある茶処などにて法話をさせていただきました。大体、のべ500名の方々と縁を結ばせていただきました。

 高野山という場所柄、篤い信徒さんだけではなく、他宗の信徒さん、さらには決まった宗派を信仰しているわけではない「観光より」の方、と幅広い方々がいらっしゃっています。そこで、普段、檀信徒の方にお話しする内容とは違うものを用意していきました。その一つはこんなものでした。

 

 真言宗、真言密教ってどんな宗派でしょうか。「密」という文字に神秘的なものを感じる方もいらっしゃれば、怪しげなイメージを持つ方もいらっしゃるかもしれません。色々な説明があるかと思いますが、ここでは、批判を恐れずこう申し上げます。

 一般的に「仏教」というと「仏になるための教え」という使い方が多いと思います。しかし、真言宗ではむしろ「仏であることに気づく教え」という部分を重要視しています。日常に追われていると、自分の心を静かに見つめるなんて余裕はないかもしれませんが、そこにはちゃんと仏様がいらっしゃいます。それに気づきなさいよ。そして、気づいたなら大切にしなさいよ、という教えです。大切にするってどういうことかというと、「仏らしく」ふるまう、生きるということです。

 でも「仏らしく」って難しいんですよね。答えがひとつでない場面もあります。たとえば、人になにか教える場面を考えてください。本人のことを考えて、嫌われてもいいから厳しく教えるというのも「仏らしく」教えるかもしれません。いや、いまどきそんなのはダメだろう。褒めて伸ばしながら教えよう、というのも「仏らしく」かも知れません。いや、あまり手取り足取り教えるのは本人のためにならない、ということで、あえて突き放して、背中を見て学べ、というのも「仏らしく」かもしれません。あるいは、いくら考えたとしても「本物の」仏様が見たら、見当はずれだったりするかもしれません。

 このような話をしたところ、奥の院で話をきいておられた女性がこんなことをおっしゃいました。昨年、ご家族で大阪万博に行かれたそうです。自分は行くことができませんでしたが、ニュースで、日差しを遮る場所が少ないので暑さ対策が必須などと言っていたのは覚えています。この方も、暑さ対策としてペットボトルの水を凍らしたものを持参されたそうです。案の定、行かれたときはすごい暑さで、休憩していると、近くで、体調を崩されている方に気づいたそうです。これはいけない、ということで、ご自身の凍らしたペットボトルを手渡そうとしたところ、ほかにも同じように体調を崩されている方々がいらっしゃることに気づいたそうです。最初に気づいた方にだけ渡すと、ほかの方はどう思うだろう、一番体調が悪そうな方にわたすべきだろうか・・・などと色々考えてしまいます。さらには、これを渡すことで、自分がいざというときに体調を崩しては、一緒にいる家族に迷惑をかけるのではないか、などと考えて、行動に移すことができないうちに、最初に気づいた方はいなくなってしまっていたそうです。そのとき、自分はどうすべきだったのか、自分は本当にひどい人間じゃないかって、今でも自分を責めているんです、と仰るのです。

 有名なたとえ話にこんなものがあります。家族で舟に乗っていたある男。事故に遭い、母親と奥さんが海に投げ出されてしまいます。両方を助けることができればよいのですが、余裕がなく、どちらかしか助けることができないとして、どちらを助けるか、という話です。儒教でしたら、親孝行が最優先ですから母親でしょう。残りの平均寿命を考えれば、若い方の奥様という考えの方もいるかもしれません。仏教ではこう考えるんですね。近くにいる方を助ける、って。命は平等だから、それ以外の価値に対するこだわりを捨てろということですね。ただ、そう簡単ではないですよね。おそらくどちらを選んだとしても、罪の意識に苛まれるでしょう。両方を救わない限りは、心は救われないはずです。

 わたしたちのかぎられた能力で、完璧な仏様として生きることは困難です。そのかぎられたなかで、仏様だったらどうするのか、いろいろと悩み、迷い、試行錯誤することこそが、私たちが、こんな面倒な娑婆の世界にやってきた意味であり、修行ということなのだと思います。いろいろと、歯がゆい思いをしたり、辛い思いをすることが、この世でのお土産です。仏の世界に戻ったときに、それを糧として、立派な仏様になればよいのです。

 先ほどの女性でしたら、多くの方をもれなく救いたい、という思いから、千手観音様のようになられるかもしれませんね。お医者さんでしたら、すべての患者さんを救いたいと思っているはずですが、現実はそうはいきません。しかし、その悔しい思いは、人々の病気を救う仏様になるための原動力になるでしょう。うちのご本尊はお薬師様。山号の「医王山」とあるように、人々の病苦を除く「医王」です。かつて、病を治すことができなくて悔しい思いをしたのかもしれません。あるいは、逆に、病のせいで、思いを果たすことができなくて悔しい思いをしたほうかもしれません。

 思うようにいかず、面倒なこの世界ですが、いずれ立派な仏様になるための「経験値稼ぎ」には最高の場所です。「縛り」のある中で、精いっぱい「仏らしく」生きる練習をして参りましょう。

 

※ 令和8年5月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

天上天下唯我独尊 

 本日も薬師護摩においで下さり、ありがとうございます。

 今日は、お釈迦様の誕生日、花まつりですので、入口には、花御堂に生まれたばかりのお釈迦様をお祀りしています。是非、甘茶をかけてお祝いしてください。

 花まつりにいらっしゃるのが初めての方もいらっしゃるので簡単にお話いたしますと、今から2500年ほど前の話です。お釈迦様のお母様である摩耶夫人が里帰り出産で実家に戻る途中で、無憂樹林で休憩しているときに急に産気づきます。摩耶夫人の脇からお生まれになったお釈迦様は、すぐさま東へ7歩、南へ7歩、西に7歩、北に7歩と歩かれると、片手で天を指し、片手で大地を指してこうおっしゃいます。

 「天上天下唯我独尊」

 その際に、天が祝福の「甘露の雨」を注いだとされ、それに倣って、甘茶をおかけしてお祝いするわけです。

 「天上天下唯我独尊」を字面だけ見ると、「この世で俺ほどすごい奴はいない」みたいな感じで、なんて生意気な赤ん坊って思うかもしれません。でも、真意は異なります。自分は、「世界で自分の代わりはいない。自分はかけがいのない尊い存在である」といった意味ではないかと思います。そういう意味では、私たち誰もが「唯我独尊」なのだと思います。

 これ以上、色々と説明するのはやめにして、一編の詩を紹介したいと思います。ご存じの方もいらっしゃるかもしれませんが、今年の灘中学の入試問題に出題されて話題となった詩です。ガザ地区の女の子視点で詠まれた詩ですが、実際に詠んだのはアメリカ在住でパレスチナ難民である女性とのことです。ではお聞きください。

 

           おなまえ かいて

 

あしに おなまえかいて、ママ

くろいゆせいの マーカーペンで

ぬれても にじまず

ねつでも とけない

インクでね

 

あしに おなまえかいて、ママ

ふといせんで はっきりね

ママおとくいの かざりがきにして

そしたら ねるまえ

ママのじをみて おちつけるでしょ

 

あしに おなまえかいて、ママ

きょうだいたちの あしにもね

そしたらみんな いっしょでしょ

そしたらみんな あたしたち

ママのこだって わかってもらえる

 

あしに おなまえかいて、ママ

ママのあしにも

ママのとパパの おなまえかいて

そしたらみんな あたしたち

かぞくだったって おもいでしてもらえる

 

あしに おなまえかいて、ママ

すうじはぜったい かかないで

うまれたひや じゅうしょなんて いい

あたしはばんごうになりたくない

あたし かずじゃない おなまえがあるの

 

あしに おなまえかいて、ママ

ばくだんが うちに おちてきて

たてものがくずれて からだじゅう ほねがくだけても

あたしたちのこと あしがしょうげんしてくれる

にげばなんて どこにもなかったって

(ゼイナ・アッザーム  訳 はらぐち しょうへい)

 

報道などでは「死者○○名」と発表されますが、そこには数字で表すことができない「唯我独尊」な方たちがいらっしゃったことを忘れてはいけないです。

 

※ 令和8年4月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。