プロの祈り

 高野山に住んでいる方から教えてもらったのですが、山内に人力車が走っているそうです。もっとも、観光地で見かける大手企業の運営ではなく、山内でゲストハウスをやっている方が企画したもののようです。

 

 人力車と言えば、知り合いのお坊さんからこんな話を聞きました。

 団体参拝のお客さんを連れて浅草寺をお参りしていたときのことです。

 近くにいた人力車の車夫さんが、お客さんにこんなことを話しているのが聞こえてきたそうです。

 「普通の人は、観音様を拝むときは『南無観世音菩薩』って言うんですよ。でも俺らプロになると『オン アロリキャ ソワカ』って言うんですよ・・云々」

 そのお坊さんは、「プロってなんやねん。」とツッコみたいのを我慢して聞いていたそうです。

 

 この話を聞いてこんな昔話を思い出しました。「念仏婆さん」というものです。

 地方によって様々なバリエーションがあるようですが、そのうちの一つを紹介します。

 普段から「南無阿弥陀仏」を熱心に唱えるおばあさんは、みんなから「念仏ばあさん」と呼ばれ、尊敬されていました。

 そのおばあさんが亡くなったときには、誰もがが極楽に行ったことを疑いませんでした。

 おばあさんも自信満々で、閻魔さんを前にして、つづら一杯につめこんだ、今までに唱えた念仏を誇らしげに見せます(風呂敷だったり荷車というパターンもあります)。

 

 閻魔さんは「よく、これだけの念仏を唱えたものだな。えらい、えらい。」と褒め、つづらの中を調べます。おばあさんは極楽間違いなしと思って待つのですが、閻魔さんの顔がみるみる曇っていきます。どうしたのかと思って尋ねると

 「おばあさん。この念仏も、この念仏も、この念仏も、心のこもっていない『空念仏』ばかりだ。これじゃ、極楽に行かせてやれない。」と言います(閻魔さんが空念仏を選り分ける方法としてはふるいにかけるとか、うちわで吹き飛ばすパターンがあるようです)。

 

 どんどんつづらの中身が無くなっていき、おばあさんはだんだんと不安になります。

 すると、最後の一つの念仏を手にした閻魔さんが

「これだけは、心のこもった念仏だ。ああ、これはひどい雷が鳴ったとき、恐怖で、心から助けてほしいと唱えた念仏だな。」と言ったそうです(雷以外には地震であったり、最期の瞬間に「助かりたい」と願った念仏、というパターンがあるようです)。

 

 そして、おばあさんの行き先は・・・

 これも2パターンあるようです。

 バッドエンドは

 閻魔さんが、「自分のことしか考えないような奴はけしからん。」といって地獄行きにしたというものです。

 グッドエンドは

 願いはどうであれ、一度でも、必死で念仏を唱えたことにより極楽へ行くことができたというものです。

 

 難しい真言を唱えることよりも、長い経を唱えることよりも、たとえ一瞬でも心を込めた祈りを捧げることの方が遥かに難しいです。

 たとえば、亡くなった方のご供養の場合には、まずは目を閉じて、その方のお顔と声を思い浮かべてください。

 

 次に、仏様に対する場合です。

 仏像や仏画が目の前にある場合は、比較的心を向けやすいでしょう。

 よく、お寺で仏像を前にして、そそくさとお賽銭を納めて、慌ただしく手を合わせている方もいらっしゃいますが、もったいなあと思います。

 まるで、お賽銭が、願い事をかなえてもらうための「代金」のように見えたり、また、必死で拝んでいる姿は「お賽銭の分の元だけは取らなければ・・・」と思っているかのようだったりします。

 そもそもお賽銭は、自分の煩悩や執着といったものをお金に乗せて捨て去る行為と考えるのがよいと思います。ですから金額は関係ないんです。

 仏様とお話しするためには、煩悩まみれでは失礼です。ドレスコードに反するようなことです。

 

 そして、身を調えたら、静かに合掌です。

 合掌は、仏を表す右手と、衆生を表す左手を合わせる印です。

 仏様も私たちも平等であり、ひとつになるということです。

 

 あとは、仏様と対話を楽しむだけなのですが、仏像や仏画が目の前にあるならば。試していただきたいことがあります(浅草寺の観音様は秘仏なので駄目ですけど・・)。

 

 まずは、仏像をしっかりと目に焼き付けてください。

 しばらくしたら、目を閉じてください。

 どうですか? 仏様の姿は残っているでしょうか。

 ダメでしたら、もう一度仏様をしっかりと見つめてください。

 そして、もう一度目を閉じる。

 目を閉じていても、仏様の姿がはっきりと認識できるまで繰り返してみてください。

 それができたとき、その仏様はもう、仏像や仏画といった物質の枠に限定されたものではなくなっています。たとえば、自由自在に大きくもできますし、いつでも、どこでも姿を現してくれる自分だけの特別な仏様です。

 さあ、ゆっくりお話ししてください。

 

 祈りとは特別なことではありません。仏様との対話です。

 身口意のすべての部分を使って、仏様とつながることです。

 「身」は合掌、「口」は、お経であったり真言です。そして何より難しいのが「意」です。

 「プロの祈り」というのは、こういうものなのだと思います。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和4年5月号の内容に加筆修正したものです。

来世に持っていけるもの

 ある高名な行者さんの本の中にこんな話が載っていました。

 ある方にこのようなことをいわれたそうです。

 「前世では、お釈迦様の元で一緒でしたね。お久しぶりです。」

 さすがに、困ってこう答えられたそうです。

 「申し訳ありませんが、そんなに昔のことは覚えていません。」

 

 今年に入って、まだ三か月たっていませんが、自分も既に、前世の記憶を持っているとか、前世は○○だった、という話をされる方と複数巡り合いました。

 

 自分自身は、前世の記憶はありませんし、前世が何だったかにも興味はありません。

 といっても、前世の存在を否定しているわけではありません。

 うちの宗旨では霊魂の存在を否定していませんし、転生も肯定しているので、矛盾するものではありません。

 また、お釈迦様自体の前世についても『ジャータカ』などで記されています。法隆寺の玉虫厨子に描かれている「捨身飼虎」の話なんかが有名ですね。

 

 ただ、普通の人は前世の記憶なんてものは持っていません。

 自分は「恥の多い人生」を送ってきましたので、夢の中、時としては、起きていても突然嫌な思い出がフラッシュバックしていたたまれない気持ちになります。

 現世でもそんなですから、前世の記憶まで残っていたら大変だろうと思ってしまいます。良い記憶だけを選り好みできるのなら別ですが。

 

 パソコンがリフレッシュされて中古販売されるような際に、ハードディスクを消去するのですが、消去したつもりでも残っていたり、復元ソフトで復旧出来たりできるように、前世の記憶が残っている人がいてもおかしくないのかも知れません。

 

 先にも述べましたが、私たちの宗派では霊魂の存在を肯定しています。

財産も地位も名誉も連れていくことは出来ません。そして、通常は記憶も思い出も。

しかし、唯一持っていける、というか永遠に付きまとうものがあります。

 

 それは「業(カルマ)」です。

 「業」というと、「業が深い」などの用法でマイナスのイメージが強いかもしれません。しかし、業そのものには善悪の意味は含まれず、善意と善行は良い業を生みますし、悪意と悪行き悪い業を生み出すわけです。

 

 人間り作った法律では、悪いことをしたならば、罪を償えばチャラとなりますが、仏教的世界では、一度作った悪業は打ち消すことは出来ません。

 たとえるならば、コップに無色の毒をスポイトで一滴たらすようなものです。たとえ、目に見えなくても毒は存在しています。

 そこにきれいな水を足して、バケツ一杯にしても毒は残っています。

 たとえ風呂桶を一杯にしても、毒が無くなっていることにはなりません。

 ただ、致死量の毒ではなくなるのかもしれません。

 そういう意味では、一つの悪業を作ると、その毒を打ち消すことは出来ませんし、その毒によって死なないようにするためには、何倍もの良い業を作らないというわけです。

 

 ところで、業について語るときに、気を付けたいことがあります。

 それは、業を強調すると、「親の因果が子に報う」だったり、現世での過酷な環境が、前世での業によるものである、といった短絡的な考えに至り、いわれもない差別につながる危険性があることです。

 以前、どこぞの元知事が、ある難病のことを、前世の業に起因する「業病」などと表現したのには愕然としました。この令和の時代に・・・。

 

 自分たち僧侶は、葬儀の際、故人様が成仏するように全力で作法をしています。

 資格もない僧侶が葬儀に関わることは詐欺ですが、成仏を信じていない僧侶による葬儀もまた立派な詐欺だと思います。

 ただ、成仏した私たちは、それで終わりではありません。

 衆生を直接的に救うために、この娑婆の世界に舞い戻ってくることもあります。

 これは、真言宗独特の考えではありません。浄土系の宗派でも「還相(げんそう)回向」などと言っているのがそうでしょう。

 

 居心地の良い仏様の世界から、この世に舞い戻るのには、ものすごい決意が必要でしょう。

 その際には、衆生を救うという大きな目標の為、わざわざ苦労の多い人生を選んでいることもあるのではないでしょうか。

 ゲームで言ったら、イージーモードではなく、ハードモード。さらにはデスモードを選んでやってきているのかも知れません。

 最近の英語では、障害者の方を、神から試練を与えられた存在として「チャレンジド」と呼ぶこともあるようですが、仏教でも、私たちはより難しいことに「チャレンジ」するためにこの娑婆の世界に舞い戻って来ているのかもしれません。

 

 もちろん、そのときの記憶は消されていますが。

 むしろ、記憶が残っていて、ふと「俺は、前は仏だったんだけど・・・」とか口にしたら、支障があるでしょうしね。

 

 ただ、私たちは、この世に大きな決意をもってやってきたことだけは、自覚していないといけないと思います。

 そして、少しでも良い業を積むこと、悪い業を積まないようにすること。

 唯一、持って帰ることのできる「お土産」を実りあるものにすることを第一にして生きていきたいものです。

 

※ 令和4年4月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

そうだ、仏像に会いに行こう

 毎年、同じ話で申し訳ないです。

 今日3月21日は宗祖弘法大師が入定された日です。西暦で言うと835年のことです。

 「弘法大師が亡くなられたのはいつですか?」という問題が出されたら、よく勉強されている方なら「承和2年3月21日です!」と元号で即答されるかもしれません。

 しかし、これはいじわる問題です。

 日本史などの知識としては正解ですが、真言宗の信徒としては不正解です。

 なぜならば、お大師様は「入定」されているのであって、「入滅」つまり亡くなってはいないとされるからです。

 いやいや、そんな馬鹿馬鹿しいことはやめてくれ、という方もいらっしゃるかもしれません。また、歴史に詳しい方なら、お大師様を「荼毘」に付したという資料があることを指摘される方もいるでしょう。

 しかし、自分たち真言宗の信徒は、そんなことを口にはしません。

 そして、高野山の奥之院では、毎日2回のお食事がお大師様に運ばれているわけです。

 

 よく、「神も仏もあるものか」と口にされる方がいらっしゃいます。

 なるほど、その人にとっては神も仏も存在しないのかも知れません。

 

 そういう意味では、仏や神の存在を成り立たせているのは、信仰そのものなのかと思います。

 

 密教僧は、行法の中で、仏様をお迎えする作法をします。

 お迎えする場所を清めて、調度品を調えて、お迎えの車を送って、到着されたら足を洗って、歓待の音楽を演奏して様々な供物を・・・というような具合です。

 

 これは、そこに仏様がいらっしゃると信じているからこその行法です。

 信仰が無ければ、ただの「おままごと」です。というか、ただの痛い人です。

 

 皆さんだってそうですよね。

 仏壇やや墓の前で、お花を供えて、お茶をあげて、ときには好物を上げたりして。

 そこに大事な人が来てくれていると思うから手を合わせているんですよね。

 そして、信仰している者の前には必ず来ておられるわけです。

 証明は出来ませんが、理屈ではないんです。体験で確信できるものです。

 

 また、行法の話に戻りますが、先ほど挙げたような作法を一つ一つ「観想」しなければなりません。

 目の前に、仏様がいらして、実際に供養するという観想をしなければ、いくら、所作がスムーズで手慣れたものであってもただの「おままごと」になってしまうわけです。

 

 そして、ある大阿さんに言われたのは「観想」は「イメージ」ではない、ということでした。

 イメージは、イメージすることを終えた瞬間、そこから仏様の姿が消えてしまう。

 それに対して、「観想」は実際にそこにいらっしゃる仏様を感じるもので、観想をやめたからといって、仏様が存在しなくなるわけではないことが違いである。

 

 なかなか、難しいです。

 行法の次第には、仏様の姿や、住まれている世界が詳細に描かれているのですが、完璧に観想するのは一苦労です。

 

 その際に、力を貸してくださるのが仏像です。

 仏像も、自由に作っていいわけではなく、ちゃんと「儀軌」にそって表現されています。

 持ち物や姿には一定のルールがあります。こんな姿の方が格好いいとか、萌える、とかいって作ってもダメなんです。

 

 今回、兄弟弟子でもあるU師が、薬師堂の本尊として、新たなお薬師様を奉納してくださり、たった今、開眼供養をさせていただきました。

 左手の薬壷には、私たち衆生の心身全てに効果のある妙薬があるとされています。

 そして、右手を前に出す姿は「施無畏印」といって、私たちの不安を取り除くものです。少し薬指が前に出ているのもお薬師様の姿の特徴です。

 

 たしかに仏像が無くたって、そこに仏様はいらっしゃいます。

 そんなものに頼らないと駄目というのは、レベルが低い、と言って、偶像崇拝を否定する方もいるでしょう。

 しかし、私たちが、仏様であったり、仏様の教えを忘れないようにするためには仏像であったり、仏画というものは必要な方便だと思います。

 

 また、仏像というものは不思議なものです。

 あるとき、巡礼ツアーのお客様に、とある観音様をご案内したところ、ある方は「美人観音様ですね。」という一方で、別の方は「男前ですね。」と言うんです。

 同じ仏像でも、見え方は人それぞれの様です。

  

 また、自分自身、毎日拝んでいる仏様が、日々異なる表情に見えます。

 寺務を怠けた日は、後ろめたさが深層心理にある影響で「厳しいお顔」に見えているだけなのかも知れませんが。

 

 今日お迎えしたお薬師様は皆様にどのように映っていることでしょうか。

 

 今後、毎月の薬師護摩の日には、薬師堂を開いて、お顔をご覧いただけるようにいたします。

 今月は、どんなお顔で迎えてくれるだろうか、と楽しみにして、お参りしてくださると嬉しいです。

 

※ 令和4年御影供での法話に加筆修正したものです。

 

 

たかが学歴ですが

  受験シーズン真っ只中ですね。

 先ほども、ある方からお孫さんが無事に第一志望の中学に合格したとの報告をいただき、ほっとしているところです。

 中学受験の算数を教えていた経験があるため、合格祈願は特別な思い入れをして修法しています。

  

 そんなわけで、今日はこんな話です。

 高野山で役僧をしていたとき、その塔頭の親奥様(住職のお母様)が、突然こんなことを仰いました。

 「私は別に学歴が好きなわけじゃないのよ。」

 

 親奥様は、昨年101歳で亡くなられましたが、はるか昔、しかも和歌山の田舎(失礼)から、東京の女子大に行かれた才女でした。瀬戸内寂聴さんとは少し先輩ですが、ルームメイトだったそうです。

 特に語学が堪能な方で、今では珍しくもないのでしょうが、「敵性言語」である英語を操ることでできる方は、戦後に重宝されたそうです。

 荒廃していた塔頭に嫁いだのちは、そのスキルを存分に活かされて、外国人の方に人気の寺として見事に復興を遂げられたとのことです。

 また、教育熱心だったそうで、息子さんである現在のご住職は京大、お孫さんたちは東大×2、早大出身です。

 また、寺で働く役僧の方も、「無駄に」高学歴の方が多かったように思います。

 ただ、役僧に関しては、「学歴負け」しているポンコツも多かったです。学歴が仕事上の能力に合致しないことなど、社会人なら常識ですけど。

 

 そんな感じでしたから、親奥様の突然の「カミングアウト」には、「またまた~」という気持ちで聞いていました。

 

 しかし、続けてこう仰いました。

 「でもね、学歴がある人は、それだけ努力する人だという証明にはなるのよ。特に国公立の人は、苦手な科目でも頑張る必要があるから、辛抱強い、忍耐強い人ってことだと思うのよ。」

 

 自分も今では住職をさせていただいていますが、加行を終わってからもしばらくは師僧の手伝いをする立場でした。

 その間に、色々な方からお寺の紹介をいただく機会がありました。

 しかし、その流れの中で紹介者の方から「あなたは親が亡くなっていて、後ろ盾がないからね。」と言われ、驚いたことがありました。いまどき、そんなことを言う人がいるんだと。

 身長のことを言われたこともありました。たしかに、特定の人にとっては「人権のない」身長ですけど。

 また、住職になってからも、他の寺の方と一緒になることがあって、「『ラゴちゃん』ですか。」と聞かれ、違う旨を伝えると、急にそっけない態度になったこともあります。

 うちの宗旨では、あまり使わない表現なのですが、『ラゴちゃん』とはお釈迦さまの息子さんである『ラゴラ』さんのことで、寺の息子であることの隠語です。

 

 何も僧侶の世界にかぎったことではないのでしょうが、自分の努力ではいかんともしがたい部分で不当な評価を受けることは少なくないと思います。

 

 そんな中で、ガチガチの保守的な組織であってもおかしくない本山の塔頭の親奥様から、個人の努力や忍耐強さという部分を評価してくださっていることを伺うことができ、嬉しかったのを覚えています。

 

 勉強に限らず、スポーツなどでも同じなのでしょう。

 何かに一生懸命打ち込んだ人ならば、別のことに対しても一生懸命に打ち込むことができるという証明になるのでしょう。実際、寺には、プロ野球に誘われるレベルだった子や、ハンドボールで県代表だった方なんかもいたようです。

 

 あるとき、上綱様(住職)から、自分ともう一人が指名されて連れ出されたことがあります。何の仕事かと思い、ついていくと、杉苔の生い茂った庭の手入れでした。

 苔を痛めてはいけませんので、手作業で枯葉をはらい、苔の間から生えている小さな雑草を、目を凝らして見つけては抜いていくという、地味な作業でした。でも、嫌いじゃないんですよね。

 時間も忘れて、没頭していると、上綱様がぼそっと、「こういうことを黙ってやり続けることができるのは君たちだから(指名した)。」と仰いました。

 上綱様も、自分の忍耐強く一つのことをやり続けることができるという内面を評価してくださっているのだと思い、ありがたかったです。

 上綱様と自分ともう一人とで、素敵な「同窓会」になりました。

 

 年齢とともに頭の回転も鈍ってきました。「全盛期」を思い出すと、歯がゆいこともあります。しかし、どのような努力をすれば結果がでるか見当がつくといった経験は不滅の財産ですし、辛抱強さなんかも劣化しないと思います。

 

 爆発的にこの寺を変えるなんて言うのは無理ですが、少しずつコツコツと素敵な場所にしていければと思います。

 

※ 令和4年二月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

数字に踊らされないように

  いつもお寺を手伝ってくださっている方が、高野山での勉強を終えて帰ってこられました。

 無事に、修士課程を終えられ、また学部の科目でも優秀な成績を収められたようです。宗門大学独特の科目である御詠歌も高得点だったそうですので、いずれ檀信徒の方々と一緒に御詠歌をお唱えする機会を作ることができればいいと思っています。

 自分自身もかつて、役僧をするかたわら、科目履修生として教学実修科目、すなわち僧侶に必須のお経とか声明とか布教といったものを学ばせていただきました。

 一流の先生に採点していただくことで、自信を得られるとともに励みにもなりました。特に厳しいと評判の声明の先生から優をつけていただいたのは、苦手意識を持っていただけにありがたかったです。

 

 ところで、昨今では授業といった場面以外のところで、点数をつけたり、つけられたりする機会が増えています。

 アンケートです。

 通販での商品レビューや、グルメサイトやら、採点をつけることはなくても、参考にされている方は多いのではないでしょうか。

 

 自分自身も、塾講師、先達、そして現在、僧侶派遣業者での法務でアンケートに関わりを持っています。

 

 塾講師の頃は、アンケート向けの授業をしないように気を付けていました。

 実際、生徒に「忖度」する授業をすれば、アンケートの点数は簡単に稼げます。

 自分自身も教室数が二百以上ある塾でしたが、全体の二位を取ったこともあります。一位じゃないのがリアルですね。

 しかし、本当に生徒にとって良い先生というのは、成績を伸ばしてくれる先生であり、合格させてくれる先生に他ならないわけです。

 

 また、先達では、ツアー会社が実施するアンケートというものがありました。

 四国八十八か所や西国三十三か所を回るツアーの場合、何回かに分けて結願、満願を目指す場合が多いです。

 最初は、お参りの作法もたどたどしく、お経も上手に唱えられない方々も、最終回近くになると、そこらのインチキ坊主など相手にならないくらいに、上手になられます。

 中には、細かい作法もあって、煩わしく思えるかもしれませんが、それこそが、ともに巡礼をする者同士の心配りであったり、気配りでのあらわれであって、単にお経がうまくなるといったテクニック的なことよりも大切だったりします。

 しかし、満願の回であっても、そういったマナーが全く身についていないお客さんがいることがありました。しかも、他のまっとうなお客さんに暴言を吐くような人たちでした。

 嫌われ役となるのを恐れる先達に当たり続けてきたせいで「野放し」になっていたようです。一見、ツアー会社的には正解のようですが、このような一部の迷惑な方たちのせいで、他の心からお参りをしようとしているお客さんたちが嫌な思いをして、途中で離脱していたとしたら不正解だと思います。

 

 現在進行形のものでは、僧侶派遣会社によるアンケートです。

 会社によって項目はまちまちのようですが、お経は上手だったか、身だしなみはどうだったか、中には、戒名は気に入ったかなんていうのもあるそうです。

 

 自分の知っているお坊さんは、お経が早いというクレームをつけられたそうです。

 しかし、真言宗では、葬儀のお経は速く唱えるのが習わしです。

 こういうこともあり、実際には、お経を端折って、そのぶん、たっぷりと唱えているお坊さんも多いようです。

 

 身だしなみに関しては、知り合いの寺では、阿闍梨でもない僧侶が、堂々と「紫衣」を身につけて葬儀をしています。それなりの年齢の方なので、自分なんかより、ありがたく見えることでしょう。衣の色以前に、何の資格もない人が引導(のようなもの)を渡していることが問題なのですけど・・・・。

 

 戒名も気を遣います。

 知り合いのお坊さんは「普」という文字を入れたところ、葬家は不満だったようです。理由は「普通」の「普」だから。「普く」の「普」なので、立派な文字なんですけどね。

 「閑」を入れてクレームが出た方もいるようです。「閑古鳥」の「閑」なんて、貧乏くさい戒名をつけやがって、ということだったそうです。自分だったら「閑さや 岩にしみいる・・・」をイメージして、故人様の物静かなお人柄を表すよい字だとおもうのですが。

 

 以前に、自分のところでお焚き上げをできない僧侶の方から、大量の白木位牌を預かって、お焚き上げをしたことがあります。みなさん、そのようなクレームを恐れているのか、「安全第一」の量産型の戒名ばかりでした。

 うちの寺の先々代は、自身で漢詩を作るような方でしたので、寺に残っている位牌を見るかぎり、かなり「攻めた」戒名が多いです。

 

 「親が、子の成長を願い、つけるのが命名であるのならば、子が親への感謝で贈るのが戒名である」ともいいます。

 ですから自分は、遺族の思いを代表する以上、故人様に最高の戒名をつけることができるように「攻めたい」と思っています。

 

 統計に対する警句として少し下品な表現ですが、「ビキニの水着と同じで、肝心のところは見えないものだ」というものがあります。

 チャーチルの言葉とされることもありますが、実際は異なるようです。

 一方で、チャーチルが本当に言ったものとしては次のようなものがあります。

 「統計とは、街灯の柱と酒を飲むようなものである。照明としてではなく、支え棒として活用されている。」

 昔も今も、統計の数字は、世論誘導のよい材料になっているというわけです。

 

 たしかにアンケートも有用です。

 戒名の話でも、ちゃんと、なぜ、どのような思いでそのような戒名をつけたかを、丁寧に説明していれば避けられたかもしれません。

 お経や身だしなみも、結局のところ、誰が法衣をつけて、お経をあげたかといことに尽きるのかもしれません。

 誠意をもって丁寧に対応をして、修法をしたのであれば、「コスプレ坊主」に負けないはずです(と信じたいです)。

 

 現在も、例の感染者数の増減で、一喜一憂しています。

 しかし、数値に振り回されずに、自分で考え、本質を見抜くように心がけたいものです。

 

 ※ 令和四年三月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

真言宗の「公約」

 たまに檀家さん以外の方からの葬儀を依頼されることがあります。

 大体の場合、真言宗を指定された結果であるのですが、なかには「宗派は問いません」であったり、「○○宗か真言宗か」しまいには「神道真言宗か」という依頼の結果だったりします。

 そういう方の場合には特に、葬儀の法話などで、少しでも真言宗のことを理解してもらえるように意識しています。

 

 しかし、菩提寺をもつ檀家さんであったとしても、「真言宗とはどんな宗派か」を即座に答えることができる方は少ないのではないでしょうか。

 

 ヒントとなるものとして、高野山真言宗の信徒の心構えを示した三信条というものがあります。政党にとっての公約みたいなものでしょうか。

  二世の信心を決定(けつじょう)すべし

  • 四恩十善の教えを奉じ

  人の人たる道を守るべし

  • 因果必然(ひつねん)の道理を信じ

  自他のいのちを生かすべし

 

 いかがでしょうか。

 密教にたいして、加持祈祷をして奇跡をおこす宗派といった怪しいイメージをもっている方にとっては、至極まっとうな教えであることに拍子抜けしたかもしれません。何より「因果必然」と言ってますから。

 一つ目は、堅固な信仰心をもつこと。二世とは現世と来世です。

 三つめは、宗派のスローガンでもある「生かせ いのち」ですね。

 二つ目の「十善」はつねづね触れてきた「十善戒」のことですので、説明は省きます。

 

 ここでは「四恩」についてだけ簡単に触れておきます。

 

 四恩とは、父母の恩、国王の恩、衆生の恩、三宝の恩を指します。国王の恩については、時代に合わせて「国家の恩」と言い換えている場合もあります。「性霊集」などの著作の中で、お大師様が繰り返し強調されているものです。

 

 最近は「親ガチャ」などという言葉もあり、感謝できないような「毒親」を持った方にとっては、一番身近な筈の親の恩ですら、納得できないかもしれません。

 衆生の恩についても、常々「渡る世間は鬼ばかり」と感じている人にとってはしっくりこないかもしれません。

 しかし、これらはあくまでも例示に過ぎないそうです。

 要は「自分を支えてくれたあらゆるものの恩」という意味なのだそうです。

 

 権利を主張することばかりが上手になり、間違いなく、昔よりも物質的に豊かになったにもかかわらず、不平不満が一向になくならないというのが現代の風潮といえるのではないでしょうか。

 

 この世で「借りた」恩に感謝して、恩を返すことを忘れない「報恩の宗教」。

 誰かに尋ねられることがあれば、それこそが真言宗だと説明していただければ間違いないと思います。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和4年2月号の内容を加筆修正したものです。

権(ごん)と実(じつ)

 先日、知り合いの僧侶の方から無事に「教師検定試験」に合格したことを報告してくださいました。

 「教師」とは、平たく言えば住職資格のようなものです。

 四度加行を終えて、伝法灌頂を受けると「阿闍梨」となります。専修学院や真別所のような集団加行の道場で加行を受けた人は、オートマチックに教師資格も得るのですが、個人加行ですと、本当にちゃんとしたレベルに達しているか怪しい人もいるということで、別途、教師試験を受けなくてはなりません。

 実際、「本当にやったの?」という方も見受けられます。あまりにもひどい方は「不合格」であったり、「師僧預かり」(もう少し上手くなったと師僧が認めたときに渡す)だったり、合格通知書に「まだまだ人前でやらないように」といった、自動車免許の「眼鏡限定」の但し書きのようなものが書かれたりするそうです(都市伝説かもしれませんが)。

 

 少し前には、ときどき寺を手伝ってくれている方が、無事に「権教師」になられたことを報告してくださいました。

 

 「教師」と「権教師」。似ていますが、「権」とは「仮の」という意味ですので「権教師」のできることは教師に比べると限られています。

 今回、権教師になられた方に聞いたところ、「加持祈祷」の印可は出たものの、授かった作法は「開眼作法」くらいだったようです。それでも、「資格としては」回忌法要などで十分勤めることができますが、もちろん葬儀などはできません(残念ながら「無許可営業」の方はいらっしゃいます)。

 

 「仮りの」という意味の「権」の対義語は「実」です。

「実」と「権」では、「本物」である「実」の方が「格上」に決まっていると思うかもしれません。

 しかし、例外もあります。

 神様(天部)には、権実二類があるといいます。つまり、仮の神様と、本物の神様がいるというのです。

 仮の神様と本物の神様なら、本物(実類)の方が「偉い」と思うかもしれません。

 そもそも神仏にランク付けするのがナンセンスなのですが、一応ランク付けをすると仮の神様である「権類」の方が上になります。

 なぜならば、本当は仏である(本地仏といいます)存在が、衆生を救うのに適した姿として仮に神の姿をとっているだけだからです。

 

 余談ですが、そのような神様(天部)をお招きして修法するときには、必ず本地仏として扱わなければならないともいわれています。

 

 よく似た用語で「権現」さんなんていうものもあります。

 ほぼ、同じなのですが、「権現」の場合、「仏が神の姿を借りて」という場合よりも広く使われているようです。たとえば、有名人や怨みを残して死んだ人たちを「権現」さんとして祀る場合です。

 

 徳川家康の「東照大権現」もそうです。一応、「本地仏」としての薬師如来が神の姿をとったという「本来の」意味もあるのですが、神仏が戦国乱世を終わられて平和をもたらすために、仮に人の姿をとって現れたのが徳川家康であるから、そこをもって「権現」とする考え方もあるようです。

 実際には、「明神」にするか「権現」にするか、天海さんと崇伝さんの権力争いの結果にすぎないのかもしれませんが。

 

 人が神仏の化身なんて、なんて不遜なと思われるかもしれませんね。

 でも、私たちは仏性をもっています。そういう意味では「権類の人」といえるかもしれません。

 「実類の人」として、欲望のまま人間世界を謳歌するのも良いかもしれません。

 しかし、自分がこの娑婆の世界を「浄土」に変える使命をもって生まれてきた、特別な存在である「権現さん」と思って生きるのもいいのではないでしょうか。