作務の大切さ ~ 周利槃特(しゅりはんどく)の覚り

 いま悉曇(一般的には梵字といった方が分かりやすいかもしれません)を習っています。自分にはもったいないくらいの高名な先生なのですが、あるとき、一向に見本を書いて下さらないのです。その日は実修のはずだったのですが、講義ばかりなんですね。

 すると先生がこう仰いました。

 「草刈りを頑張ったので、手がしびれてしまってます。もう少ししたら収まると思うのでしばらく我慢してください。」

 一般の世界では、クレーム事案になるのかも知れませんが、少なくとも自分は、こんな大徳が自ら草刈りをされていることに感激しました。

 

 草刈りや掃除といったものをまとめて「作務」といいます。作務衣の作務です。ネットで探すと高級な「おしゃれ作務衣」が見つかりますが、汚れることが前提の作務衣でおしゃれ作務衣というのも不思議な感じです。およそスポーツに向かない「おしゃれジャージ」というのもあるので気にする必要が無いのかも知れませんが。

 

 作務の重要さと言えば、周利槃特さんの話が定番です。

 この方の話には、色々なバージョンがあるようですが、メジャーな一つを紹介します。

 

 周利槃特はお釈迦さまのお弟子さんです。お兄さんと一緒に弟子入りしたのですが、非常に物覚えが悪かったそうです。ときどき、自分の名前すら忘れてしまうので、名札を首からぶら下げていたともいわれています。

 そんなこともあり、覚りに至るどころか、修行をするうえでも色々と苦労していました。周囲からも軽んじられたり馬鹿にされたりで、本人もあきらめかけていました。

 そんなときに、お釈迦さまは「塵を除く 垢を除く」という言葉とともに、一枚の布を渡し、ひたすらに寺の掃除に努めるよう言いつけます(ほうきとするバージョンの方がポピュラーです。また掃除するのも履物とするバージョンもあります)。

 

 生来、真面目な方なので、一生懸命掃除を続けるうちに、落とすべき汚れとは、貪、瞋 、痴という三毒に象徴される心の汚れだと悟り、すべての煩悩を滅して覚りに至ったというものです。

 

 どうでしょうか。納得できましたか?

 大体、こんなオチになっている話が多いのですが、自分はあまりスッキリしないのです。

 

 一方でこんなオチもあります。

 いくら掃除を続けていてもいっこうに覚りを開くことができない周利槃特さん。さすがに忍耐強いこの方も、こんなことで本当に覚りを開くことができるんだろうかと不安に思い、焦りも感じていました。

 そんなとき、部屋中をピカピカに磨き上げた直後、修行仲間がドカドカと上がってきて床を汚してしまいます。つい

 「せっかく今綺麗にしたのに、汚しやがって!」

と怒鳴りつけてしまったとき、ハッと覚りを開いたというのです。

 自分は、こちらの方が好きです。そして、先の話とこちらの話とでは覚りの内容が少し違うように思います。

 

 私たちの心は本来清浄なものです。私たちの中にはすでに仏が備わっています。ただ、それが煩悩などの汚れによって隠れているだけです。

 ですから、そうした煩悩さえ取り除けば仏となれるのです。

 これを、月と雲にたとえることもあります。

 たとえ雲によって深い闇であっても、月が無くなったわけではないです。雲さえ取り除けばそこには月が存在しているということです。

 

 ここまでが、最初のお話での覚りの内容です。では、後の話です。

 

 煩悩を完全に取り払うということは簡単なものではありません。

 そもそも、完璧な掃除というものは存在するのでしょうか。

 自分の中での「及第点」「妥協点」に達したところで折り合いをつけて、「完了」としているのではないでしょうか。

 そのことを否定しているわけではありません。当たり前のことです。本当の意味での完璧な掃除を目指したら、永久に掃除をし続けるしかないでしょう。

 さらには、掃除が完了したとしても、また汚れるわけです。自分が汚すこともあれば、他人によって汚されることもあります。

 煩悩は完全に取り除くことは出来ません。出来るかぎり「及第点」まで減らしたとしても、また少しずつ増えていきます

 

 煩悩をゼロにすることに執着してはいけない。ゼロにしようと努力することが大事。そして、煩悩が発生し続ける以上、それを減らそうとする努力には終わりがないということでしょう。

 どうせまた汚れるのだから、とあきらめてしまえば、ゴミ屋敷一直線です。慣れというのは怖いです。「及第点」がどんどん下がっていきますし、しまいには落第上等となってしまいます。

 

 赤塚先生の天才バカボンに出てくるレレレのおじさんは周利槃特がモデルだともいわれています。そもそも、バカボンという名前自体が仏や聖者を表す「薄伽梵」由来だともいわれていますし、パパの口癖の「これでいいのだ」もなかなか深いです。

 

 いつも「お出かけですか~」の声とともに、ほうきを動かし続けているレレレのおじさんは、心の掃除に終わりがないということを教えてくれる姿なのかもしれません。

 

 どんなに忙しくとも、「お出かけ」前には、仏壇に手を合わせて、心の掃除をしてから一日を始めてはいかがでしょう。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和4年8月号の内容を加筆修正したものです。

 

 

 

 

胡瓜加持 令和四年版

 本日は胡瓜加持にご参加くださりありがとうございました。

 

 この科学万能の現代にあって胡瓜加持などと言う非科学の代表、宗教というよりも民間信仰のようなものは、もはや絶滅危惧種といえるかもしれません。

 そこで、今日は胡瓜加持の根拠というか、論理構成について少し触れてみたいと思います。

 

 突然、知り合いが「俺は神になる。」と言い出したら、どうしますか。

やばい奴だと思って、そーっと距離を置く方が殆どではないでしょうか。

 たしかに、神として祀られた人もいますが、どちらかとしいうと生前のその方への崇敬や畏敬から「神にされた」場合が多いのではないでしょうか。

 基本的に、神は自分たちと一線を画した存在で、崇め奉る存在ではあっても、目標とする存在ではないように思います。

 

 一方で「俺は仏になる。」

 こちらも、少し奇異に映るかもしれませんが、「覚りを目指す」と言い換えれば、何ら問題がないでしょう。

 

 そもそも、私たちの中には仏になるための「種」がそなわっています。

 「仏性」と呼ばれるものです。

 

 仏性は人間だけが持つものでしょうか。

 仏教が、インドに発生して大陸経由で日本にわたる間に、その地域の文化によって変化を遂げたことはご存じの通りです。

 

 仏性についても、「人間にのみある」から「動物にもある」となり、次には「植物にもある」となり、最終的には岩や山といった自然そのものにも仏性を認めるようになります。

 「山川草木悉有仏性」という考え方です。

 日本人は、古来より山や岩そのものをご神体として、そこに霊的なものを認めてきたので、必然的な流れだったかもしれません。

 

 ただ、仏性があることと、実際に仏になるということとは一致するわけではありません。

 

 たとえば、皆さんの中にもペットを飼っておられる方がおられると思います。

 ペットは家族ということで、亡くなったには葬儀をする方も増えてきましたし、人間なんかよりも丁寧に回忌法要を続けておられる方もいらっしゃいます。

 もちろん、ペットの成仏を願ってのことだと思います。

 しかし、仏教の宗派の中でも、さらには僧侶の中でも、ペットが成仏できるかどうかは一致していません。

 ペットに仏性があることは認めながらも、自力では覚ることができない以上、次に一旦、人間に生まれ変わったのちに成仏するほかないという考えも有力です。

 

 冗談みたいな話ですが、どんな人でも救ってくださるという阿弥陀様ですら「南無阿弥陀仏」と唱えられない動物たちは成仏できないんだという方もいます。

 それに対して、じゃあ、オウムに「ナムアミダブツ」という言葉を覚えさせてしゃべらせればOKなのか?と返す方もいたりして・・・。

 そもそも、浄土真宗さんの場合は、阿弥陀浄土に行くことは「成仏」そのものではなく、そのための修行に最適最高の場所に行くという意味なのですが………。

 意外と、ペットの成仏については難しい問題があります。

 

 ところで、今回用いた胡瓜には、不思議な「護符」をまいてあります。

 さらには、修法の中で結界を張り、「開眼」も行っています。

 

 平たく言えば、これらの作法で、胡瓜を「胡瓜菩薩」にしています。

 「菩薩」さんですから、利他行のエキスパートということです。

 私たちが苦しんでいる病を、身代わりに引き受けてくれるというわけです。

 

 こんなことに胡瓜を使ってもったいない。食べ物を粗末にして・・・という方もおられるかもしれません。

 もちろん、この胡瓜たちは「スタッフがおいしく頂きました」ではなく、土に還します。

 

 しかし、胡瓜に「身代わり」になって得られた健康な身体で、覚りを開く、とまではいかなくても、善行を重ねる、徳を積むということが出来れば、それは胡瓜の為に「身代わり」で修業してあげることになるのではないでしょうか。

 それは、決して胡瓜を無駄にすることではないです。

 

 ちなみに、ペットが、生まれ変わりを経由せずに成仏できるかにっいて自分の見解を述べておくと、自分は肯定しています。

 ペットの愛らしい姿や動作で、飼い主が、怒りを抑えたり、辛さを乗り越えたりしてしっかり生きることで、成仏させてあげることができると思っているからです。

 

 どうか、胡瓜の代わりに元気に、しっかりと生きて、胡瓜を「胡瓜如来」であったり、一層立派な仏様にしてあげてください。

 

※ 令和4年7月8日 胡瓜加持での法話に加筆修正したものです。

 

 

施餓鬼について 令和四年版

 本日は施餓鬼法要にお集まりくださりありがとうございます。

 毎年、同じような話になりますが、ご容赦ください。

 

 先日、葬儀をさせていただいた方の戒名に「乗」という文字を使わせていただきました。これは「大乗仏教」の「乗」です。迷いのない覚りの世界へ至る「乗り物」という意味です。

 大乗仏教の対義語は小乗仏教です。もっともこの呼び方は、大乗仏教側からのものです。一般的には「上座部仏教」と呼ばれる東南アジア方面の仏教です。

 私たちの仏教は「大乗仏教」です。

 文字通り、みんなで大きな乗り物に乗って、覚りの世界に行こうという仏教です。

 

 以前にも申し上げましたが、自分たちの数珠の擦り方は手前→むこう→手前です。

 これは自分→他人→自分を表しているいいます。すなわち、自分のことを2つお願いする間に他人のために1つお願いするようしなさいということです。

 自分たちが阿闍梨になったのちは一歩進んで、むこう→手前→むこうに擦るように言われました。今度は、自分のことよりも他人の為に祈るようにしなさいということです。なかなか、実践できていませんが。

 

 一方で、仏様は100パーセント他人のことを考えて行動されているわけです。

 皆さんのご先祖様は、ちゃんと成仏されていますからそういう存在です。

 その方々が、お盆ということで皆さんの元へ帰ってきます。

 その途中で、誰にも手を合わせてもらうこともできず成仏できずに苦しんでいる餓鬼さんのような存在を見かけたら、放っておけるわけがないですよね。

 「どうだい、もしよければ一緒に帰らないか。うちの子孫たちがちゃんとごちそうを用意して待っていてくれるから一緒に食べようよ。」

とかいって誘って帰ってきているのではないでしょうか。

 

 本来、お盆と施餓鬼は別々の行事です。

 実際、真言宗の僧侶はお盆に限らず、毎日施餓鬼をしています。

 しかし、一般の方々が、毎日施餓鬼をするというのは大変ですので、上のような感じでお盆に施餓鬼をくっつけたのが本当のところだと思います。

 

 今日は少しだけ、施餓鬼の作法についても少し説明したいと思います。

 餓鬼さんの絵を見たことがあると思います。

 痩せこけて、おなかがポッコリしてます。栄養失調のような姿ですね。

 食べ物にありつけないということなのですが、そもそも食べ物をとることができない体なのだといわれています。

 もう一度、餓鬼さんの姿を思い出していただけると、のどが細いことに気付くのではないでしょうか。

 餓鬼さんののどは細くて、食堂が針ほどの太さしかないといわれています。

 ですから、さきほど、餓鬼さんののどを広げる作法をしました。しかし、それでも大変だということで、「水の子」のように野菜を食べやすく細かく切って、さらにはのどを通りやすいように水をかけてあげているのです。

 皆さんが、先ほどやってくださった「水向け」というのは、餓鬼さんの為に、食事を食べやすくしてあげる作法だったのです。

 

 しかし、餓鬼さんは、自分のような醜い存在が、仏様に近づくのは畏れ多いと思っているようです。ですから、このお堂の中に入ってくることはできません。

 そのため、さきほど食事を庭までもっていきました。

 そして、背の低いとされる餓鬼さんのために、わざと低い位置に置いてあげたというわけです。

 このように、一つ一つの作法が、餓鬼さんをもてなすため、思いやりに満ちたものになっています。そして、皆さんも「水向け」をして協力してくださったわけです。

 

 先祖でも知り合いでもない餓鬼さんの為に、そのような施しをする行為こそ、大乗仏教が最も大切にしている100パーセントの「利他行」です。

 

 そのような姿を見て、仏様として先輩である皆様のご先祖様は、誇らしく、喜んでくださったはずです。

 だから、施餓鬼供養がそのまま先祖供養になるというわけです。

 

 今日は、皆さんのご先祖様を含めて、沢山の仏様が喜んでくださったはずです。

 もちろん、餓鬼さんたちも、単に一時しのぎでおなかが膨れただけではなく、未来永劫救われました。

 「法施」として、一緒に般若心経をあげていただいたのはそのためです。

 新しい仏様の誕生ともいえます。

 

 これを目的とするのはいけないのですが、施餓鬼は功徳が大きいとされています。

 誰にも手を差し伸べてもらえずに苦しんでいた餓鬼さんたちを、仏様にしてあげるというとんでもないことをするわけですから、当然と言えば当然なのかもしれません。

 

 今日は、そのような素晴らしい供養に、ご参加くださりありがとうございました。

 

※ 令和4年7月3日 施餓鬼法要での法話に加筆修正したものです。

 

 

より高い頂のために ~ どんな知識も無駄にはならない

 今日は、西山寺にお参りしてくださりありがとうございます。

 

 正直、お寺の屋根の素材がなんだとか、形が方形造だとか・・・興味のない人も多いですよね。

 いえ、それで普通ですよ。

 そんなことに、目を輝かせている小学生の方が心配ですから。

 

 ただ、こんなことを心にとめておいてください。

 

 皆さんも、小学生とはいえ高学年ですから、将来になりたいものだとか、目標だとかビジョンといったものがあるのではないでしょうか。

 その仕事に就くことができればそれで満足、というのではなく、できれば、その分野で一流になりたいと思っているかもしれませんね。

 

 それって、砂場で高い山を作ろうとするのと似ていると思います。

 既に、立体も習っているそうなので分るでしょうが、なるべく砂を使わずに、高い山を作ろうとすれば、直径の小さい円柱を作るのが効率がよさそうですね。

 

 でも、それではうまくいかないことを皆さんは体験として分かっているはずです。

 崩れますよね。水をかけて、急速に凍らせるとか、科学的な処理をするのは別ですが。

 

 結局、高い山を作ろうと思えば、それなりに大きな土台、すそ野を作ってあげないと駄目なんですよね。

 

 将来、希望の仕事や分野に進んだとしても、その分野の知識だけでやっていけるわけではありません。

 一見、その分野に関係ないような他の分野での経験や知識の支えがあってこそ、自分の専門分野で高みにたどり着けるのです。

 

 ましてや、みなさんには、今、思い描いているのとは別の未来が待っているかもしれません。

 むしろ、小学生の頃の夢がそのままかなう人の方が少ないでしょうし、もっと新しくて素晴らしい目標ができることも多いはずです。

 だからこそ、いまはどんなことにも興味をもって、なるべく大きな土台を作っておいてください。

 大人になると、あれもこれもと興味を広げて、土台を広げても、この牧之原のような台地くらいにしかならないかもしれませんが、皆さんには時間や選択肢がまだまだたくさんあるんです。

 

 今日は、このあとも色々なところを見学して、色々なことを学ぶはずです。

 今日の体験が、将来、皆さんが築き上げる大きな山の支えになることを願っています。

 

※ 地元小学生の、郷土を学ぶ体験でのあいさつに加筆修正したものです。

初心忘るべからず ~ どんな法務でも

 先日、僧侶紹介業者から、法務依頼の電話があったのですが、少し違和感があるものでした。

 「喪主さんと長く話をしてください。」

との指示があったのです。

 

 そこの業者の仕事は、ちょこちょこ受けているのですが、そのような指示があったのは初めてでした。

 

 少し、不安に思いながら、ご喪家に挨拶の電話を入れて、色々とお話をしたところ、理由が分かりました。

 

 実は、自分の前に、別の僧侶の方に依頼があったそうです。

 そして、その方から挨拶の電話があったそうなんですが、その対応があまりにビジネスライクすぎて、心が感じられないということで、NGを出したそうです。

 そして、代打が自分だったと・・・。

 

 その僧侶の方が実際にどういう対応だったかは分かりません。

 ただ、想像できる部分があります。

 

 まず、その法務の内容ですが、炉前読経というものでした。

直葬」という表現をすることもありますが、葬儀場などの施設を利用せず、火葬場のみで完結するものです。

 そのまま、火葬することもありますが、それでは寂しいと思い、せめて火葬炉の前で5分から10分くらいでもよいのでお経をあげて欲しいという方もおられます。

 それを、狭義の「直葬」と差別化して、業者によっては「炉前読経」とか「火葬式」と呼ぶようになっています。

 

 もちろん、場所と時間の制約があるため、できることは限られます。

 当然、引導作法なんかできるはずもありません。

 それでも自分は、お経以外に、戒だけは授けるようにしています。

 

 というのも、炉前であっても戒名を希望される方が多いからです。

 戒も授けずに、戒名だけ授けるというのもあまりに方便が過ぎると思います。

 

 そして、戒名をつける上では、事前に葬家に御挨拶をして、故人様のお人柄や生き様や趣味などを伺うことになります。

 檀家さんでもなく、場合によっては一期一会になる関係ですが、それでも、このお話をするおかげで、自分なりに故人様をイメージして、思い入れをもって葬儀をすることができるようになっていると感じます。

 

 ところが、今回は「戒名なし」というものでした。

 しかも、別の寺から戒名が授与されているので、その戒名を戒名紙に代筆して用意してこい、というものでした。

 

 こういうのは、ときどきあるパターンです。

 菩提寺はあるものの、遠方なので住職が来れない(自分だったら、どこでも行きますけどね)。

 そこで、とりあえず火葬の際には、どこぞの坊さんに「出棺経」程度のお経を唱えてもらう。

 そして、四十九日あたりの納骨の際に、菩提寺でしっかり法要をする(そして、しっかりもらう)という流れです。

 

 この場合、「主役」の菩提寺さんを押しのけるような発言や対応には気を付けなければなりません。

 

 長く客待ちした挙句に乗せた客が「超近距離」の客に当たったときのタクシー運転手さんのようにがっかりして「塩対応」をしたわけではなく、むしろ、気を遣って、話を手短にしようとしたのかも知れません(今は近距離でも快く対応してくれますけどね)。

 

 でも、それだって、経験とデータにとらわれた思い込みによるものにしかすぎないんですよね。葬家はあずかり知らないことです。実際に今回も、特に菩提寺さんがある方ではありませんでした。

 

 身近な人の死なんて、滅多にあるものではありません。

 人の死に立ち会うことが日常である僧侶と異なり、ましてや身近な人の死に接して、普通でいられる方はいないでしょう。

 それを、簡単に、このパターンはこんな人が多いから・・・というふうにカテゴライズして対応するのは失礼極まりないことでしょう。

 

 以前、高野山で役僧をしているときに、同僚の方から

 「(在家出身で)お経をあげて、お布施をもらって生きていけるというのは、ものすごいことなんだぞ。」

と言われました。

 

 実際、せっかく修行をして阿闍梨になったのに、僧侶として生計を立てることが出来ずに、一般の職に就いている人がたくさんいます(さっきの発言をした方も運送会社を立ち上げるとかいう噂)。

 

 はじめて、人の為に、お経をあげさせてもらったときの喜びを忘れてはならないと、自分を戒める良い機会になりました。

 

 

蓮の法話 ~ テンプレよりも少しだけおまけ

 お気づきになられたと思いますが、今年から蓮を育てています。

 おそらく蓮は、もっとも仏教を象徴する植物だと思います。

 寺の中の荘厳にももいろいろなところに蓮がモチーフであしらわれていますし、うちのお薬師様たちは蓮の台に座ったり立ったりしておられます。

 皆さんも、お浄土といえば、綺麗な蓮の池があって・・・というイメージがあるのではないでしょうか。

 

 では、何故蓮なのでしょうか。

 バラでもチューリップでもよさそうなものですが、それには意味があるとされます。

 

 まずは、耳にタコ、という方も多いであろう「テンプレ」の話です。我慢して聞いてください。

 

 一つ目ですが、蓮は泥の中に有っても、泥に染まることなく美しい花を咲かせるということです。

 このことが、私たちが、この面倒くさい汚れた娑婆の世界に住しているとしても、気高く生きるべきであるという理想像を象徴しているというのです。

 

 二つ目ですが、蓮は花を咲かせると同時に、もう実が出来ていることです。

 これは、私たちには生まれたときからすでに仏性がそなわっていることを表しているというのです。

 

 それぞれ、「淤泥不染の徳」「花果同時の徳」と呼ばれるものです。

 この他にも、説明は省きますが、「一茎一花の徳」「一花多果の徳」「中虚外直の徳」を合わせて、「蓮の五徳」ともいわれます。

 

 テンプレはここまでです。

 

 ここからは、実際に、自分が蓮を育て始めて、気付いたことをお話ししていきたいと思います。

 まず、蓮は泥の中で育ちますが、汚れた水の中で育っているわけではありません。

 植え付けにあたり、栄養豊富な田んぼの土、荒木田土を買いました。農家の方から見ると、田んぼの土をお金を出して買うなんて滑稽かもしれませんね。さらには、水生植物用の肥料もブレンドしてあります。

 

 つまり、蓮は「汚れた泥の中に有っても」ではなく、「栄養豊富な泥の中」だからこそ、きれいな花を咲かせるというのが正解です。

 

 人間世界は、天人の世界よりも、苦労が多い分、悟りを開くための心の修行にはもってこいなのだともいいます。この試練も、仏様の下さった栄養ということでしょうか。

 

 次です。

 今回、自分はどうしても今年中に花を見たかったので、蓮根を植え付けました。

 本当ならば、種から育てたかったです。

 

 蓮は、何千年前の種でも、ちゃんと発芽して育つことで知られています。2000年前の古代蓮を開花させた大賀博士は有名ですね。

 

 でも、蓮の種は、水につけただけではまず発芽しないそうです。

 では、どうすれば発芽するかというと、少しやすりなどで傷をつけてあげればいいそうです。

 

 人は、大きな挫折を経験したり、身近な人の死といった心の痛みを経験することで、仏性に目覚めるとまではいわなくても、大きく人として成長するということがあると思います。それと似ているのではないでしょうか。

自分はこれを「蓮の六徳目」に入れても良いと思います。語呂が悪いですけど。

 

 色々知ると、ますます、蓮は仏教を象徴する花だと実感します。

 

 ただ、実際の私たちは蓮ほど強くありません。

 試練という名の肥料が多すぎて、「肥料負け」してしまいそうなこともあります。

 

 そんなときには、自分は「生きている」のではなく「生かされている」のだと意識して、神仏に「すがる」のもありなのではないでしょうか。

 

 自分が、暇があったら気になって、蓮鉢をのぞいているように、神様や仏様だって、私たち衆生のことが心配で、ちらちら見て下さっているに違いありません。

 自分は、花をつけてくれるのを心待ちにしていますが、つぼみがついただけでも嬉しいですし、さらには、葉っぱが大きくなっただけでも十分に嬉しいです。

 同じように、仏さまたちも、たとえ、なかなか花を咲かせようとしない衆生であろうとも、小さな成長ひとつひとつを愛情の目で見守ってくれているはずです。

 

 今日も、お薬師様が絶対に味方してくれていると安心して帰ってもらえれば幸いです。

 

※ 令和4年6月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

アレンジしてはいけないもの ~ チョンチョンチョンって何?

 ときどき拙寺を手伝ってくださる僧侶の方からこんな質問をされました。

 「洒水の最後に、三度点を打つような作法があるのですか?」

 

 洒水とは、散杖という40~50cmの杖を用いて、水を灌ぐ作法で、その場を清めたり、供物や人を清めたりする作法です。

 洒水器に入っている水を振りまくような所作をするのを見たことがあるかもしれません。

 

 実際に、その作法は流によって様々です。

 自分は、高野山真言宗で得度をしましたから、「中院流」という流で加行を受けましたが、同じ中院流でも、習った大阿闍梨さんが違うと、微妙に所作が違ったりします。

 自分もあまり他流のことに詳しくはないですが、最近伝授を受けた安流や西院流の洒水はかなり違いました。

 

 それこそ、西院流の中には、最後に縦に三本引くみたいな作法があるので、

 「自分の知識の中では思い当たるものはないですが、流によっては有るのかも知れませんね。」とだけ申し上げました。

 

 その後、その方が、発言の主に尋ねたところ

「最後に チョンチョンチョンってやった方が格好いいじゃない」

と、のたまったそうです。

 

 怒りを通り越して、面白かったです。

 

 ちなみにその方、他流の阿闍梨さんとかでもなく、そもそも加行もしていない方でした。

 

 越法になるので、あまり詳しくは申し上げられませんが、こんな話を紹介します。

 

 洒水で散杖を振る前に、洒水器をカンカンカンと叩く作法をします。

 せっかく水をつけたのに、水を切ってしまうようで不思議に思うかもしれません。

 

 これは、平安時代後期の寛助僧正が、普賢延命菩薩御修法をされたときに、振りまいた水がご本尊さんの目尻にかかって涙の様であったということから、以来、水を切る作法が加わったとされています。

 

 しかし、江戸時代の高僧、浄厳和上という方は「カンカンカン」は不要とされました。

 というのも、寛助さんが修法したときのご本尊さんは、図像で、敷曼荼羅だったというのです。ですから、散杖から滴った水が下に落ちて、たまたまご本尊様の目のところの顔料が滲んで「悲劇」になったというのです。

 ですから、通常の、敷曼荼羅ではなく、はるか前に掛けてある図像だったり、木や金属の立体のご本尊様を用いて修法する場合には意味がないと仰ったわけです。

 

 この浄厳さんという方はすごい方で、散逸したり混乱して伝わっていた様々な修法を研究して再構成や再構築をされたそうです。その自信作が「新安流」らしいです。

 

 また、胎蔵曼荼羅についても、儀軌とは異なっている、といって新しい様式の曼荼羅を作らせたそうです。具体的には、真ん中の「中台八葉院」の色を赤ではなく白にしたそうです。

 実際、中台八葉院の色を赤にするというのは、どこにも書かれていないそうです。

 

 それに対して、やはり江戸時代のスーパースターの慈雲尊者が、浄厳さんの功績を評価したうえで、「お大師様以来の伝統をないがしろにするのはダメ」と批判したとか・・・。

 

 長く伝わってきているものを変えることが必ずしも悪いわけではないと思います。

 ただ、それにはそれなりの根拠がないと話になりません。

 少なくとも浄厳さんや慈雲さんのような碩学の高僧レベルであって、はじめて土俵に上がることができる話だと思います。

 

 自分のような愚僧は、とにかく一挙手一投足を間違えないように伝えていくことすら大仕事です。

 

 このことは、僧侶だけではないでしょう。

 仏事だけでなく、色々な伝統が日々失われています。

 時代の流れだから、ある程度は仕方ないとは思いますが、意味をちゃんと知った上で、変えてはいけない部分を見抜く手間をかけるべきです。

 

 なぜ「カンカンカン」が不要かを考えた浄厳さんと、格好いいから「チョンチョンチョン」を加えた件の僧侶の例をあげるまでもないでしょう(そもそも並べて書くだけでも失礼極まりないですね)。

 

 ちなみに、チョンチョンチョンの方は、葬儀とかもされてるみたいですので、見かけたら「これが噂の・・・」と思ってください。