釈迦に説法

 年頭から、愚痴をお許しください。

 

 ごくたまに「お経、上手ですね。」と言われることがあります。

 その後、おっしゃった方は失礼なことを言ったのかと恐縮されたりします。

 

 たしかに、プロ野球選手に

 「野球、上手ですね。」

と声をかけるのはナンセンスかもしれません。

 でも、「守備がすごいですね。」とか「足速いですね。」ならありではないでしょうか。みんなが「走攻守そろった」人ばかりではないでしょうから。

 

 同じように、僧侶だからと言ってみんなお経が上手なわけではありません。

 高名な僧侶の方で、徳が高い方でも、お経となるとそれほどでもという方が少なくないように思います。

 

 そういう意味では、お経が上手であることは、僧侶の「必要条件」ではないと思います。

 

 先日、ある自称「見える系」の方からこんなことを言われました。

 「あなたを仏さんが見守っています。」「ご本尊さんですね。」

 

 なんかもやもやしてしまいました。

 

 私たち僧侶は、仏さまの存在を信じています。

 どんな時でも見守ってくれていて、導いてくれると信じぬいています。

 

 だからこそ、今日の護摩でも、様々な供養をして、祈願をしているのです。

 それを信じていなければ、変な呪文を唱えて、変な手の形を作っているだけの「痛い」人です。

 

 伝授でお世話になった大阿闍梨さんは常々こう言っておられます。

 「皆さんには、詐欺師になってもらいたくありません。」

 

 自分が仏さまの存在、力を信じていないのに、形だけ修法をしたり、お経をあげて、救いを求めている方からお布施をいただくのは詐欺行為そのものです。

 

 そういう意味では、仏様への信仰というか「信頼」は、僧侶であることの「必要条件」だと思います。

 

 ご本尊様が守ってくれてますね、だと?・・・・・・当り前じゃ(失礼)

 

 何も、「見える系」の方を全否定しているわけではありません。

 見える系の方にもパターンがあると思うんですね。

 ①本当に見える人 ②見えるような気になっている人 ③見えていないのに、見えているように装い、お金を巻き上げる人。

 ③はまさしく詐欺師ですね。

 絶対に許しません。

 

 でも、寺にいるとそういう方が結構寄ってくるんですよね。

 「護身法」の結び方が不十分なのかと自信がなくなりそうです。

 

 自分たちは、行の前後に「護身法」というものを結びます。

 行が始まると真っ先に行います。

 ごく簡単に説明すると、仏さまと対話するのにふさわしい身づくろいをして、その対話の邪魔が入らないような準備です。

 

 一方、行の終わりにも護身法を結びます。

 仏様との対話が終わっているのになぜでしょうか。

 それは、聖なる空間を出て、「魔の多い」娑婆の世界に帰っていくからです。

 

 護身法の印明(印と真言)の中に「甲冑印」というものがあります。本当に指で兜の形のような印を結んで、真言を唱えるものです。

 一般的には「かっちゅういん」と読みます。

 しかし、自分たちは「こうちゅういん」と読み習わしています。

 

 それは、「かっちゅう」が、武士が刀や槍などで命をやり取りするための防具であることと区別するためとも言われています。

 

 私たちが「魔」と戦うための武器は刀剣などではありません。

 「慈悲」こそが武器なのです。

 

 刀剣などでは相手を切り伏せておしまいです。

 しかし、慈悲が武器であれば、倒された相手も「慈悲を備えた人」として再生するのです。

 そこには怨恨も残りません。相手をも「仏様陣営に」引き込んでしまう最強の武器です。

 

 面倒くさい人に出会っても、「慈悲」の武器でコテンパンにしてやりましょう。

 

※ 令和5年 1月初薬師護摩での法話に加筆修正しものです。

 

 

現世利益 上等!

 最近では、宗教と科学が水と油の関係のようなものではなくなってきたように思います。自分の知っている方の中にも、科学者から僧侶になった方がおられますし、生死にかかわる職業だからなおさらなのでしょうか、医師でありながら僧侶という方も珍しくなくなってきているように思います。

 

 ある精神医学の先生が、宗門主催の講演会でこうおっしゃったそうです。

 「密教を信じたらどんなメリットがあるのですか?」

 「自信をもって『健康になる』と言って良いと思います。」

 

 どうしても自分は、うちの宗教を信じたら健康になるとか、幸せになると言い切ることを憚ってしまいます。心が豊かになりますとは言えますが、あまりに現世利益ばかりを宣伝すると、インチキ臭くなりそうで嫌なんですね。

 

 そもそも仏教は、死を避ける、病を避ける、貧困を避ける・・・といったことを究極の目標としているわけではありません。

 

 むしろ避けることのできない病や死や老いといった苦を受け入れる、執着しないことで、乗り越えるのが本筋なのでしょう。

 実際、そのような祈願を否定する宗派も存在しています。

 

 しかし、できることなら元気で長生きを願うのは人情です。それを、レベルが低いことと切り捨てるのはどうなんでしょうか。

 

 そもそも私たちは何のためにこの世に生まれてきたのか。

 答え合わせをする方法は無いかもしれませんが、あえて「修業のため」と言っておきます。

 「人生は遍路なり」などと「ベたな」ことを言うつもりはありませんが、自分の中にある仏の種をいかに大きく育てるかの自由研究みたいなものではないでしょうか。

 

 人身受け難し いますでに受く

 仏法聞き難し いますでに聞く

 

 このお釈迦様の言葉の通り、なかなか得られないチャンスをもらって生まれてきたのがこの世界なのです。

 ですから、この時間を無駄にしてはもったいないです。

 

 健康で長生きをして少しでも修業ができるように願うことは、強欲なことではありません。むしろ模範的だと思います。

 

 不老不死を願っているわけではありませんから・・・。

 自分たちは、読経や行法の中で「横死」から逃れるように、と祈願することがあります。これは天命を全うしないで亡くなることです。

 せっかく神仏からいただいた時間を使い切ることができるように、という「謙虚な」願いです。

 

 また、修業や勉強をするにも、ある程度の「モノ」は必要です。

 勉強に差支えがないくらいの経済的余裕を願うのも許されるのではないでしょうか。

 

 本日の護摩で、元気になっていただき、まだまだこの面倒くさい娑婆の世界で、思う存分修業していただければ幸いです。

 

※ 令和4年12月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

  

  

 

 

うさぎ年のおはなし

 みなさん、あけましておめでとうございます。

 

 今年はうさぎ年、そしてお子様連れの方もいらっしゃるので、こんなお話をしたいと思います。元ネタは『ジャータカ』とい仏教説話です。

 

 むかし、ある森の中でうさぎとさるときつねが仲良く暮らしていました。

 かれらは、動物に生まれたことを悔やんでおり、次は人間に生まれ変わり、さらには仏さまになりたいと願っていました。

 そして、そのためには修業が必要であり、その一つが「布施」をすることだと知りました。

 

 いつか、布施をする機会があればと願っていると、旅のお坊さんが倒れているのを見つけました。

 どうやら、ろくなものも食べずに栄養失調になっているようです。

 さあ、布施をするチャンスだと色めきだった三匹は、お坊さんに食べてもらうための食糧探しに出かけます。

 

 猿は得意の木登りで、色々な木の実を集めて帰ってきました。

 キツネは川に入り、上手に魚を捕まえて帰ってきました。

 

 しかし、うさぎだけは人に食べてもらうような食料を見つけられず、途方に暮れて帰ってきます。

 

 魚や木の実を食べて、少し元気を取り戻したお坊さんに向かって、うさぎはこう言います。

 「私は、あなたに食べていただくような食料を見つけることはできませんでした。代わりに私を召し上がってください。」

 

 そう言うと、うさぎは目の前のたき火に身を投じました。

 

 しかし、不思議なことにうさぎの体に火は付きません。それどころか熱さすら感じません。

 

 するとお坊さんは、本来の姿であるインドの神様である帝釈天に姿を変えてこう言います。

 

 「お前たちの、布施の心は見事であった。特にうさぎは自分の命を差し出すとは見事である。その心を称えて、お前は月に住むことを許してやろう。」

 

 昔から、月にはうさぎが住んで餅つきをしている、などと言われていますが、それはこのときの話によるものだそうです。

 

 さて、自分がこんな話をしたからと言って、今年度からお布施の額を上げます、とかいう話ではありませんので安心してください。

 ましてや、命をかけたお布施とか、重すぎて受け取れません。

 

 そもそも、布施というのは僧侶相手に渡す金銭や物品のことだけを指すものではありません。

 自分の持っているものを、必要としている方に「対価や見返りを求めずに」分け与えることなのです。

 

 さらに言うと、金銭や物品を差し出すことだけが布施ではありません。

 「無財の七施」といって、財物以外の布施があります。

 その中でも、一番簡単なものをあげておきます。

 

 まず一つ目は「和顔施」です。

 文字通り、笑顔で相手に接してあげることです。

 

 もう一つは「言辞施」です。

 こちらは優しい言葉をかけてあげることです。

 

 二つをまとめると、皆さんもよく知っている「和顔愛語」です。

 

 今年はうさぎどし、命がけとはいかなくても、ニッコリ笑顔で優しい言葉に心がける一年にしたいものです。

 

※ 令和五年 元日星まつり護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

理趣経灌頂

 先日、理趣経灌頂を受けてきました。

 

 最近、似たような記事を読んだぞ、と思われたかもしれません。

 先日の記事は「毘沙門灌頂」でした。今回は理趣経灌頂です。

 

 灌頂とは仏さまと強いつながりを結ぶ儀式ですので、色々な場面で受けることになるということはこれまでも書いてきました。密教ではメジャーな単語ですね。

 

 そして、理趣経真言宗ではあらゆる場面で唱えられるお経です。

 よく勉強されている方なら真言宗の最も重要なお経は「両部の大経」と呼ばれる大日経金剛頂経だろ、とおっしゃるかもしれませんが、それらは覚りに至るまでの「ハウツー」を記したお経で、日々お唱えするお経ではありません。

 葬儀であろうと回忌法要であろうと、そして日々のお勤めであろうと、私たち真言僧は理趣経を唱えます。そういう意味で最もメジャーなお経です。

 

 そんな真言密教にとってメジャーな単語である「理趣経」と「灌頂」ですが、それらを組み合わせた「理趣経灌頂」という単語はメジャーではないようです。

 自分が勉強不足なだけかと思いましたが、実際に理趣経灌頂の「印信」のことが出てくる流派はほとんど見当たらないようです(今回は印融さんの系統らしいです)。

 

 今回の内容に関しては録音も許されないもので、詳しく書くことはできませんが、非常に身の引き締まる思いのする内容でした。

 

 真言僧にとってはどんなときにも理趣経

 それをいいことに、理趣経さえ読めれば飯が食えるくらいに思っている僧侶が多いのではないか。

 

 理趣経とは「理に趣くための経」である。

 意味も理解せずに読んでも無意味である。

 

 そして、理趣経はただ読むためのものではない、

 理趣法のために読誦するためのものである。

 

 私たちにとって重要なのは三密行であるが、理趣法は三密行である。

 

‥等。

 今はあまり触れられることが少ない「理智事三点説」などのお話もあり面白いものでした。

 

 具体的なテクニックという部分では、「印信」の内容の一つが即戦力でした。

 棚経などで、理趣経を最略であげる場合には「百字偈」のみということがありますが、そこに印明(印と真言)を加えるというものでした。

 棚経で百字偈ベースに組み立てることが肯定されたことも安心しました。

 

 理趣経の世界を、具体的に理解しイメージできるのに資する「理趣経曼荼羅」をお土産にいただいて、岡山から帰ってきました。

 

 以前、後輩のお坊さんが住職としてとあるお寺に迎えられました。

 在家出身で、若い方でした。

 うちの宗派で、在家出身で住職になるというのは簡単ではありません。一番可能性の高いのは婿養子に入ることでしょうか。

 しかし、その方はそういう「縛り」のない状態で、本当に「縁あって」住職になりました。ただ、葬儀や回忌法要などの法務の経験が少ない方でしたので、ベテランの住職に相談したそうです。

 

 「理趣経を毎日あげること。」

 アドバイスはそれだけだったそうです。本人は具体的なハウツーを聞くことができると期待していただけに不服そうでした。

 

 しかし、その方、理趣経を毎日あげていないんですよね・・・。

 風の便りでは、寺を出て行かれたそうです。

 せっかくご本尊さんに呼んでいただけたのに・・・。

 

 くりかえしになりますが、真言宗ではどんなときにも理趣経です。

 天台宗のスタンダードな経本である「台宗課誦」なんかを見ると、バラエティ豊かですよね。

 それなのに、理趣経は檀信徒さんと一緒に唱えるようなお経ではないんですね。

 

 内容が誤解を招きかねないということで、横に注釈書である「理趣釈」を置いて読むべし、とされたり、現在でも建前としては「理趣経加行」を終えてからしか読んではいけないことになっています(実際には理趣経も読めないで加行に入ったらボコボコにされるのですが)。

 

 しかし、真言宗の檀信徒さんが、自分の宗派のメインたるお経に触れることができないのはどうなのかと思います。

 せめてエッセンスである百字偈については一緒に理解して、お唱えしていただくのがよいと思います。実際に、檀信徒用の経本には掲載されていることも多いですし。

 

 ここのブログの「資料室」に百字偈と口語訳を掲載していますので、興味のある方はご覧になってください。

 

自力?他力?

 高野山では仏さまも神様も仲良くしています。

 たとえば、加行という修業が終わると、奥の院のお大師様に報告に行くのは当然ですが、お大師様に高野山を譲ってくださった神様のいらっしゃる丹生津姫神社や立里荒神さんにもお礼参りをします。

 

 自分が立里荒神さんにお参りした際に、祝詞の中で「この者は、人智に限りがあることをしり、神の力を頼み・・・」といった内容がありました。

 実際に加行中は、仏様神様を問わず力を貸していただき、無事に成満できることを願っていました。

 その祝詞を聞いたとき、そのときのことがフラッシュバックして、ただただ、ありがたく感謝を申し上げました。

 

 日本仏教にも色々宗派があり、浄土系の宗派は「他力」、禅宗さんは「自力」による覚りを重要視しているようです(相対的にですが)。

 

 では、真言宗はどうでしょうか。

 答えは「三力」です。

 自分たちは勤行で「三力偈」というものを唱えています。

    

    以我功徳力 如来加持力

    及以法界力 普供養而住

 

 自分の努力(自力)と仏様の加持力(他力)だけでなく、「法界力」というものが加わります。

 宇宙という意味もありますが、分かりやすく言うと、周囲の色々な人や環境といった数多くの力の三つが揃ってはじめて願いが成就するというのです。

  よく「自己責任」などという言葉が安売りされていますが、自分一人で成し遂げられていることなんて殆どないのではないでしょうか。

 私たちは常に周りの力を借りていきていますし、迷惑をかけて生きています。それは恥ずかしいことではなく、当たり前のことです。それが分かっているからこそ、今度は誰かの「法界力」になろうと決意できるのです。

 むしろ、自分一人で何でもできているというのであれば、本当にすごい方なのか、ただの無知で傲慢な人でしょう。

 

      

 先日、今年最後の薬師護摩を修しました。いつも参加される方に仏様への願いを書いていただいている添護摩木を見ると、願い事ではなく一年間の感謝を書いてくださった方がいらっしゃいました。すごくありがたい気持ちになりました。

 

 年末で忙しいとは思いますが、一年間無事に過ごせたことを感謝してお礼参りに行くくらいの余裕は持ちたいものです。

 

 また、最近は「年賀状じまい」という言葉も聞かれます。お歳暮文化も衰退しているようです。

 しかし、形式的なものは省略するとしても、一年間を振りかえり、「功徳力」と「法界力」に感謝する気持ちは忘れたくないものです。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和4年12月号の内容を加筆修正したものです。

毘沙門灌頂 ~ 二密ではダメ

 もう寅年も終わりですね。

 うさぎさんが、ウォーミングアップを始めていることでしょう。

 

 寅年限定のイベントとして、奈良県にある信貴山にて毘沙門灌頂が行われ、自分も受けてまいりました。

 

 「灌頂」については今までも何度かお話してきました。

 もともとはインドで王様が新たに即位する際に、四海の水を頭にかける(頭の頂に灌ぐ)作法が、密教にも取り入れられたものです。

 密教では、曼荼羅や仏さまと深く縁を結ぶ儀式として、節目節目の重要な場面で受けることになります。

 今回は、文字通り毘沙門天さんの知恵と慈悲の水を頭に灌いでいただき、毘沙門天様と「入我我入(にゅうががにゅう)」すなわち一体化する荘厳なものでした。

 

 そして、毘沙門天さんと縁を結んだ証に「パスワード」のようなものを授かります。

 それが真言と手印です。

 毘沙門灌頂で授かる真言と印は5種類あって、自分は今回で2種類目でした。年齢的にあと3つコンプリートするのは難しいかもしれません・・・。

 

 灌頂の最後に管長猊下から、印と真言を授かりました。

 さらに、丁寧にお話もいただきました。

 内容を完全に再現することはできないですが、印と真言だけではダメということでした。毘沙門天様と縁を結んだ以上は、自分自身が毘沙門天様の手となり足となり行動しなければならないこと。自分だけが幸せになるための儀式ではないこと。毘沙門天様の慈悲と知恵で人のために尽くそうという心が伴っていなければいけない、ということでした。

 

 密教パワーワードで「三密行」というのがあります。身・語(口)・意の三つの働きを浄めるとそのまま仏になるというものです。

 印を結び、真言を唱えるというのもそうです。

 印を結ぶことが「身」、真言を唱えることが「語」を浄める働きです。

 しかし、それだけではダメなのです。心が伴っていないと、ただの「おままごと」になってしまうわけです。

 

 今回の毘沙門灌頂は、僧侶だけが対象のものではなく、むしろ在家の方がメインターゲットのものです。そのような場で、三密の「心」の重要性を丁寧に説いてくださったことに感謝しました。

 

 その後、お接待ということでお膳を用意していただきました。

 美味しくいただいていると、ガヤガヤと女性数人のグループが隣に座られました。

「黙食」という言葉はこの方たちの辞書には掲載されていないらしく、聞きたくもない話がどんどん耳に入ってきます。

 

 「あの席の並べ方では、お坊さんの手とか見えへんかったわ。しゃあないから、立って見たわ。横の坊さんは変な顔しとったけどな。アンケートあったら、書いとかなあかんな。席の並べ方をもっと工夫せいって。そういう意見は大事やろ。向こうのためにもなるで。前に〇〇寺(京都の有名な禅寺)の体験に参加したときは良かったわ・・・(以下略)」

 

 印と真言は手に入れられたようですが、毘沙門天様の心は忘れ物をされてきたようです。

 

 ところで、普段みなさんがしている合掌も立派な印です。

 左手が私たち衆生、右手が仏様を表しています。

 ですから、合掌は私たちが仏さまと一体であること、仏さまがいつも私たちの近くにいらっしゃることを意味しています。

 仏壇や寺で手を合わせるとき、少し時間をとって、そのようにイメージしてください。

 それから、真言やご宝号を唱えたら、立派な三密行です。

 意外と、気持ちを整えることを忘れてしまっていませんか。それではもったいないです。

 

 もっと早く毘沙門灌頂の話をしてくれれば、自分だって受けたかった、という方もいらっしゃるかと存じます。12年は待ちきれないという方もいるでしょう。

 

 代わりにはならないですが、在家の方でも受けることのできる灌頂はほかにもあります。

 高野山でも、例年5月と10月の頭に、それぞれ胎蔵曼荼羅の仏さまと金剛界曼荼羅の仏さまと縁を結ぶ「結縁(けちえん)灌頂」が行われますので、興味のある方は是非受けていらしてください。もちろん「パスワード」もいただけますが、それ以上に素晴らしいものが得られると思います。

 

※ 令和4年11月の薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

囚人のジレンマ ~弱小寺院のジレンマ

 「囚人のジレンマ」という理論があります。

 お互い協力する方が、協力しないよりもよい結果になることが分かっていても、協力しない者が利益を得る状況では互いに協力しなくなる、という理論です。

 具体的に例を挙げます。名前にあるように囚人を使ったものです。

 

 二人の囚人がいます。

 どちらも罪を認めていません。

 何とか有罪にはできるのですが、このままでは懲役2年にしかできません。

自白を得られれば、もっと重い罪にも問うことができるとします。

 

 そこで、取り調べの警察官はこのように提案します。

 「もし自白をすれば、無罪にしてやる。自白をしなかったほうの奴は懲役10年だ。

ただし、二人とも自白した場合は二人とも懲役5年だ。」

 

 二人の囚人は、個別に取り調べを受けていて、相手の行動もわからなければ、連絡も取れないという前提で考えてみてください。

 

 囚人全体で考えると、どちらも黙秘を貫いたら、刑期は2+2=4年です。

 どちらかだけが自白した場合は0+10=10年です。

 二人とも自白した場合も5+5=10年です。

 ですから、「囚人チーム」として考えると、黙秘が最適解です。

 

 しかし、自分だけが自白して、相手が黙秘を貫いた場合に無罪になるというのは魅力です。

 また、自分が頑張って黙秘を貫いたのに、相手が自白をした場合、裏切り者の奴が無実となり、自分だけが10年の懲役を食らうのはばかばかしいです。

 そして、心が揺らぎだします。

 

 結果、どちらも自白して、取調官の思うつぼになってしまいがち、という話です。

 

 寺のブログで、なんでこんな話を?と思ったかもしれません。

 

 テレビを見ていると、インターネットで葬儀を依頼できる、僧侶も呼べる、などというCMが流れています。今は無くなりましたが、アマゾンで「お坊さん便」などというものも「販売」されていました。

 

 実際、故郷を離れて、菩提寺とのつながりも無くなった方が、葬儀のドタバタの中で葬儀をしてくれる寺院を自力で見つけるのは現実的ではないでしょう。そういう意味で、葬家と寺との縁を作るシステムは歓迎されるべきでしょう。

 

 一般的には、葬儀を依頼した葬儀社が、親交のある寺院の中から見つけてことが多いのではないでしょうか。ただ、宗派指定となると、地域性などもあり、なかなか見つからない場合もあります。

 そのため、葬家ではなく、葬儀社などの「業界側」が僧侶派遣業者に依頼して手配する場合もありますし、そこをターゲットとしている派遣業者もあるようです。

 

 はい、みなさんも「大人の事情」は察していることと思います。

 そう、紹介料というか、バックマージンのことです。

 派遣業者の場合は、発生するのがデフォだと思います。

 問題はその割合です。

 10パーセント?20パーセント?

 そんな良心的な紹介料ならば、喜んで登録しますよ。実際、色々と話をまとめて手配をする手間を考えると、一定の紹介料は当たり前だと思いますから。

 

 以前、知り合いの寺でお世話になっていたときのことです。

 そこで葬儀をすることがステータス、とされるような「高級」葬儀社からの法務は70パーセントから80パーセントの手数料でした。

 50万円のお布施をいただいても手元に残るのは10万円ほどでした(そこは50万円くらいが最低ラインのところでした)。

 

 10万円ももらえるのだからいいじゃないか、と思うかもしれません。

 勘違いしてほしくないのは、お布施の金額が少ないことに対して不満を言っているわけではないということです。

 15万円のお布施のなかに手数料が5万円含まれているのではなく、50万円のお布施の中に手数料が40万円含まれているということが問題だと言っているのです。

 

 なぜなら、喪主さんは50万円を仏様への「お布施」として納めてくださっているのです。その心を裏切っていることになるのではないでしょうか。

 また、実際には10万円しか寺の懐に入らないにもかかわらず、高額な「名目だけのお布施」を取っていることで「坊主丸儲け」との印象を強め、結果として、寺離れ、仏教離れを誘っているのではないでしょうか。

 

 すべての寺院が、そんなのはおかしい、といって拒絶すれば一番良いのかもしれませんが、自分の寺だけが干上がっていく未来を考えると簡単ではないのは、囚人たちと変わりません。

 

 そんな派遣業者の細々とした法務など歯牙にもかけない大寺院さんにとっては、法務を安売りする同業者の存在を苦々しく思っているかもしれません。

 

 

 囚人のジレンマは、経済活動における値下げ競争のほか、政治分野でも軍縮がなかなかうまくいかないこととか、色々な場面で顕現するそうです。

 

 囚人のジレンマを回避する方法はいくつか考えられます。

 まず、ひとつは信頼関係です。

 互いに、抜け駆けしない、裏切らないと十分に信頼できる関係を作ることです。

 

 他には、罰則を作ることです。

 聞いた話では、特定の地域の、ある宗派は、地域を管轄する支所のお達しで、派遣業者の依頼を受けないように締め付けているとも。これはその例でしょう。

 

 拙寺でも檀家さん以外の法務を受けている、というか受けないと立ち行きませんので、「弱小寺院のジレンマ」は他人事ではありません。

 

 御朱印巡りをするのもよいですが、そのついでに、頼りとしたい寺を見つけて、縁を結んではいかがでしょうか。

 終活でどんな葬儀にするかを決めるのなら、どんな坊さんに引導を渡して送り出してほしいかまでこだわってはいかがでしょうか。

 

 菩提寺がない方は不便なように思うかもしれませんが、メリットもあります。それは、自分で寺を選べることです。

 檀家さんは、いくら菩提寺の住職がろくでもない坊主で、経を挙げてほしくないような人であっても、キャンセル不可ですから。

 

 最近は、お寺も、開かれた場所であろうと色々と努力しています。

 うちも檀家寺ですが、檀家さん以外方も気楽に立ち寄っていただけるようにと、続けているのが月に一度の薬師護摩です。

 

 まずは、寺や仏教との距離が小さくなれば幸いです。