小欲から大欲へ

 今日も色々なご祈願をしていただきました。

 こんなに欲まみれの、自分のための祈願では恥ずかしいと思われる方もいらっしゃるかもしれません。そして、お坊さんだったら、きっと自分の願いなどなく、人様の願いを届けることに全振りしていると思われているかもしれませんが、そんなことはありません。

 

 以前にも申し上げたかと思いますが、数珠の擦りかたにも色々あって、自分たちは向こう→手前→向こうの順に行います。これは他人のため、自分のため、他人のために祈ることを表すともいわれます。ちなみに阿闍梨になる前は、人のために祈る余裕はない、その分自分の修業に力を入れるようにということなのか、手前→向こう→手前でした。比率は変わりますが、僧侶であっても自分のために祈ることが許されている証なのかもしれません。

 

 暑い日が続いています。少し外で作業をしていると干からびてしまいそうです。しかし、雑草はタフでして、少しでもにわか雨が降ろうものなら、待ってましたとばかりに茂ってしまいます。本当に、刈り取っても刈り取っても生えてくるという点では、私たちの煩悩と同じです。ここでは簡単に欲と言ってしまいましょう。私たちの欲も次から次へと湧き上がってきます。

 

 その都度、欲(煩悩)を摘み取ることができればよいのですが、なかなか大変です。真言宗ではむしろ、その欲を生かしなさいというのです。

 欲にも「小欲」と「大欲」があります。前者は、もっぱら自分のための願望をかなえたいと言う欲です。一方、後者は自分だけでなく、広くたくさんの人の願いをかなえたいという欲です。

 先ほどのように、植物に例えるならば、小欲は地面近くに生えている雑草のようなものです。こまめに刈り取るのも良いのでしょうが、それよりも、近くに大欲という大樹を育てなさいというのです。その大樹が大きく枝を張って、葉っぱが茂ると、日陰になって下の雑草は自然に枯れてしまうでしょう。そして枯れた雑草は、大樹を育てる肥料にかわるというのです。小欲は大欲を育てる原料にさえなるというのです。

 実は、自分も、自分の願いを叶えるための行法をしています。安心してください、今日の薬師護摩では、全力で皆さんの願いを届けることだけしていましたから。自分の願いが何かというと「勉強できるだけのお金に困らないこと」です。いつも申し上げていますが、四度加行を終わって伝法灌頂を受けて「阿闍梨」になったといっても、ただのスタートラインです。ようやく、色々なことを学ぶ権利を得ただけです。今日の薬師護摩も以前奈良まで行って伝授を受けたものです。先日の胡瓜加持もそうです。今も悉曇の勉強会をはじめ、複数の伝授を受けているところです。正直、お金がかかります。でも、その行法をするようになってから、なんとかうまくいっています。あと〇万円だけあれば、この伝授受けれるのになぁ、と思っていると、ちょうどそのぶんくらいの臨時収入が入ったりするんですね。残念ながら、ちょうどの分しかはいってこないですけど。

 すると、力を貸していただいたんだということ、学ぶことができたということが嬉しくて、次の願いが出てくるんですね。「この学んだことを生かす機会が欲しい」と。正直、学んだものの、使う場面はないだろうな、といった内容もあります。胡瓜加持もそうでした。学んだころには、先々代が、この寺で行っていたなんてことは知りませんでした。また、井戸封じや伐木供養なんか、都会の寺にいたころには一生使う機会はないと思っていましたが、こちらへ来てからやる機会に恵まれました。

 また、伝授に行くと、顔見知りができます。類は友を呼ぶ、なんでしょうか。自分と同じように、お金をやりくりして、何とか駆けつけている仲間がいるんですね。親から、金を出してもらっているのか、伝授が始まって早々にいびきをかいていたり、旧知の坊さん同士で飲み会の打ち合わせばかりしているような幸せな方たちと違って、自分たちは必死です。一言だって聞き逃すものかと前のめりで受けているんですね。そうすると、こんどは「自分と同じように、志のある僧侶が勉強に困らないだけのお金が回りますように」という願いが加わります。ここまでくると「小欲」から「中欲」くらいになったでしょうか。

 ちょうど、先日も伝授仲間から、経済的状況が上向いた、との報告がありました。自分以上に苦労して、頑張っている方なので、すごくうれしかったです。すると、最終的には「僧侶に限らず、学ぶ意思のあるものが、経済的理由であきらめないで済むように」という願いに代わってくるんです。ここまでくると「大欲」ですね。

 自分が苦労したうえで、願いが叶ったという体験があるからこそ、他人の同じ願いに共感して、叶えばいいなぁ、という気持ちになれるんだと思います。

 

 うちのお薬師様は文字通り、病気平癒に特に験がある仏様です。もしかすると、仏さまになる前には、健康面で苦労され、救われた体験があるのかもしれません。だからこそ、衆生の病を必死で治そうとしてくださるのかも知れません。お薬師様の誓願の中には、病気を治すこと以外もありますので、経済的な願いもOKですのでご安心ください。

 

 本日の薬師護摩で、皆様の小欲が満たされ、大欲を育てる糧となることを願っております。

 

※ 令和6年8月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

 

国王の恩

 先日、本山が主催する布教講習会に参加しました。自分以外の受講者が二十代、三十代の若い方ばかりだということもあり、講師の先生は、若い方が年上の方に対する法話の難しさについて話しておられました。先生のお一人は六十代で、本山布教師になって三十年を超える大ベテランなのですが、それでも戦争を経験された方には、若造の自分が何を話してよいのか、と悩むとおっしゃっておられました。自分もも同意です。

      

 真言宗徒の守るべき三信条の一つにこのようなものがあります。

   四恩十善の教えを奉じ

   人の人たる道を守るべし

 ここで四恩というのは、父母の恩、衆生の恩、国王の恩、三宝の恩を指します。三宝とは、仏と仏の教えと仏教を信奉する仲間のことです。四恩という用語は「心地観経」という経に見られるもので、真言宗に限らず、日本仏教では重要視されています。

 

 この中で、国王の恩だけは、文字通りにとらえたのでは理解しにくいかもしれません。一般的には、王や天皇陛下を指すだけではなく、時代や国状に応じて、為政者全体、あるいは国家を指すといわれています。仏教さえ信じていれば、何もかもがうまくいくのなら理想なのでしょうが、そうではありません。戦争などのように、社会が乱れていれば、個人の幸せなど簡単に吹っ飛んでしまいます。そういう意味で、平和で安

定した社会と、それを築き、支えてくれている人々に感謝しなさいというのです。

ドラマや映画などでは、過去にタイムスリップする作品なんかもあり、その時代に生きることに憧れる人もいるでしょう。しかし、そこは、ごく一部の人を除いては「人権のない」世界です。選択肢のない人生を送る人が大半です。一般庶民にとっては夢を見ることすら許されない世界ではないでしょうか。そういう意味では、生まれや環境による有利不利はあっても、ある程度自分の努力次第で夢がかなう現代の日本に生まれたことに対しては感謝しかありません。

 

 ところで、社会は本当に良くなり続けているのでしょうか。

 技術の進歩により、生活環境が便利になっているのは間違いないでしょう。しかし、それに正確に比例して私たちが幸せになっているかというと微妙ではないでしょうか。使い古された表現ですが、物質的な豊かさと精神的な豊かさは必ずしも一致するものではありません。

 また、人類の歴史を見ると、高度に発達した文明が滅亡した例は古代エジプト文明やマヤ文明、ローマ文明など枚挙にいとまはありません。ローマ文明なんかでは、上下水道完備でコンクリートも使われていましたが、ローマ文明の滅亡とともにその技術自体が人類の歴史から一旦失われてしまいます。自然災害によるものならまだ理解できるのですが、政治的な混乱であったり、外敵による侵略であったり、結局、人間の手によって文明が失われてしまってきていることがほとんどです。

 このように、人間社会の進歩は、「三歩進んで二歩下がる」ような感じです。数え切れない人々の努力と試行錯誤と犠牲があって、ようやくいまの社会があるわけです。「国王の恩」とは、そのような先人たちへの恩と考えるべきではないでしょうか。それを忘れた、心をおろそかにする文明に将来はないのだと思います。さもないと神を恐れずに築き上げたバベルの塔のような最期が待っていることでしょう。

 

 今年の8月15日、首都圏での法務をこなしていました。電車利用で東京&埼玉。ちょうどお昼ごろに大宮駅で乗り換えだったのですが、いかにもレジャー目的という方でかなり混雑していました。以前はお盆の期間、里帰りする方が多く、首都圏は閑散としていたように思うのですが、コロナ以降様変わりしたのでしょうか。昔は、帰省先などで、家族で高校野球を見て盛り上がっていても、正午になると、戦没者の方を想い、一斉に黙祷するのが日本人のルーティンでした。この日が、単なる夏休みの一日になってしまうようではあまりにさびしいです。お盆であり終戦記念日、先祖への報恩、この平和な社会の礎となった方たちへの報恩の気持ちを強く持ちたいものです。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和6年8月号の内容に加筆修正したものです。

本物の見分け方

 先日、キダタローさんが亡くなられました。言うまでもなく全国区の著名な方なのですが、関西出身の自分たちにとっては、とくに身近な存在だったと思います。実際、高校の文化祭にもいらしてくださり、講演をしてもらったこともあります。

 

 そのときのタイトルは「本物の見分け方」だったように思います。

 話の内容だけでなく、手品なども交えてのエンターテイメント性の高い素敵なものでした。手品は、無作為に選んだ3名に好きな文字を書いてもらい、封筒に入れたものを当てるというという王道のものでした。種明かしとしては、無作為に選んだはずの3名のうちの一人がサクラであるというものなのですが、その役を真面目な先生がやることで、生徒である自分たちの「思い込み」を誘うというものでした。

 大学に進むもの、就職するもの、色々な進路に進む者がいる中で、権威や肩書なんかに惑わされずに、本物を見分けなさいよ、ということだったと思います。

 

 自分たちの世界(仏教や僧侶など)も、本物を見分けるのが難しい世界です。唯物論者を気取る人に言わせると、すべてが偽物と言いそうですが。

 

 今日の薬師護摩のように、仏さまの力を借りて何かをかなえようとすることを「加持祈祷」と言います。真言宗の売りであるとこでもあります。これには、登場人物が3人必要です。

 

 まずは仏様です。神様も含めてしまってもいいでしょう。ぜひ、本物の神様、仏さまを見つけましょう。

 先日、ある札所の勉強会に出たとき、ある方が「〇〇寺って、ご本尊がいないような気がする。」っておっしゃいました。すると、別の方が「ああ、ご本尊様に愛想をつかされたんだろうね。」とすかさず仰いました。自分もよく知っているお寺さんですが、最近は商売ばかりに力を入れているのが目についていました。行法とか全くしていなかったのではないでしょうか。仏様はただの「仏像」となり、仏さまのいない「がらんどう」になってしまったんでしょう。

 本物の神仏がいらっしゃるかどうかを見分けるのは、難しくないと思います。お参りして、心が軽くなる感覚を信じて下されば良いかと思います。たとえ神仏がいらしても、人間同士と同じで、波長が合わないようなところはスルーして良いでしょう。

 

 次は、僧侶です。加持においては、仏さまと信者さんをつなぐ役割を果たします。願いをかなえるのは仏様ですので、仲介役というか触媒なのですが、それが本物でないと「化学反応」は起こりません。そういう意味では「自分が病気を治した」とかいう僧侶は、その時点で偽物です。病気を治すのは、あくまでも仏様ですから。

 本物の僧侶というのは、信仰心、知識、技能を具えた僧侶だと思います。僧侶なら信仰心があって当たり前、と思われるかもしれませんが残念ながらそうではないように思います。さきほど挙げた、仏さまの力を無視して、自分の力を誇示するような方もその類です。

 あるお寺さんの話ですが、そこは手広く法務を受けています。葬儀、回忌法要は当然ですが、水子供養に家祓い・・・何でもござれです。宗派すら問いません。「うちは『みなの宗』だから。」と仰っています。特別な伝授を受けていないとできないような難しいこともされていますが、「一生懸命拝めば、大丈夫だから。」とのこと。これは、正しいようで、正しくないです。なぜならば、僧侶にとって、一生懸命拝むのは当たり前のことです。どなたかの祈願や供養の依頼を果たすための「必要条件」ではあっても「十分条件」ではありません。何百年、場合によっては千年以上にわたり、諸大徳によって考え抜かれた、守り抜かれて伝えられた修法があるわけです。こういう祈願にはこれ、こういう供養にはこれ、というものがあるわけです。それをなおざりにして、ただ拝めばよい、等というのは、特効薬を与えずに単なるビタミン剤を与えて「安静にしておけば大丈夫だから。」くらいのことしかしていないわけです。また、修法を知っていることと、できることは別なことです。自分も先輩から「普段、ちゃんと行法をしてない坊さんの祈願なんか効果無いで。」と言われてきました。実際、その通りだと思います。そして、本物の僧侶の見分け方ですが、少し話してみれば分かると思います。試すような真似はいただけませんが、真摯に相談したり、質問したら必ず、見抜けるはずです。話もせずに看板だけを見て判断してはいけないでしょう。

 

 あとは、皆さんが本物の信者になるだけです。残念ですが、仏さまは、試練を与えてくることがあります。ときには、神も仏もあるものか、と吐き捨ててしまいたくなるような辛いこともあるはずです。そんなときでも、信じぬくのは簡単ではないかもしれません。しかし忘れないでほしいのです。わたしたちはみんなほとけさまの子です。ほとけさまの一部といってもよいです。たとえ世界中のすべてが敵にになったとしても、唯一無二の味方であり続けてくれます。是非とも信じぬいてください、すがってください。

 

※ 令和6年7月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。

 

 

施餓鬼2024

  毎年、同じ話になるのは勘弁してください。

 

 まずは復習です。お盆と施餓鬼の由来について、です。

 これには大きく2つのパターンがあります。どちらもお釈迦様の十大弟子にまつわるものなのですが、1つは阿難さんの話。こちらは鬼に「あなた、もうじき死ぬよ。」と言われた阿難さんが施餓鬼をすることで救われたというもの。

 もう一つは、目連さんが餓鬼道に落ちて苦しんでいる母親を救うために、大勢の僧侶へもてなしをして功徳を積んだというものです。その母親の姿が、まるで逆さ吊り(サンスクリットで「ウラヴァーナ」)にされているかのような苦痛に満ちたものであったことから、それを音写して「盂蘭盆(うらぼん)」となったといわれています。

 

 ところで、お釈迦様の高弟になるような方のお母さんが、餓鬼道に落ちるということに違和感はないでしょうか。

 たかが、昔話で創作なんだろうから、気にする必要はないと思う方が多いかもしれませんが、学者さんあたりとなるとスルー出来ないようです。

 本当に阿難さんのお母さんが、餓鬼道に落ちるような貪欲で非道であったのか、あらゆる資料をあたった方がいるようですが、そのようなものは見つからなかったそうです。

 

 これに関して、ある先生が私説として、このようにおっしゃっていました。

 「いくら良い人でも、家族のため、特に子供のためだったら悪いことだってできるんじゃないかな。阿難さんのお母さんも、子供のために罪を犯すことはあったのではないかな。」

 たとえば、貧困で子供が飢えている状況なら、親としては人のものを盗んででも、子供に食べさせてあげたいと思うでしょう。窃盗のような犯罪は別としても、子供を守るために、他人を押しのけるようなことをしている人は少なくないはずですし、それを強く非難することもできないように感じます。

 

 仏教では「自業自得」が原則です。

 残された私たちが「追善」と称して、亡くなった方のための供養をしても、その功徳はその方に届かないのが道理です。

 でも、そうではないんです。ちゃんと「自業自得」なんです。

 残された家族に、手を合わせてもらえるというのは、その方が生前に徳を積んだからに他なりません。「自分の業」に由来しているんです。

 残された私たちが、親や家族を供養するのは、受けた恩の「後払い」です。もしも、自分たちのために、少々「無茶」をした結果、あの世で苦しんでいるようなら、全力で助けなければならないはずです。

 「親孝行したいときには親は無し」

 どんなに親孝行した人でも、十分に満足できている人は少ないのではないでしょうか。もっと、あんなことをしてあげたかった・・・という気持ちに苛まれている人は少なくないはずです。

 供養は、孝行の延長戦です。そして、「生前の孝行は孝養、没後の孝行は供養にして、孝養は現世に限れども、供養は後生に及ぶ最善の報恩」と申します。お盆は、しっかりと孝行していただければと存じます。

 

※ 令和6年7月7日 施餓鬼法要での法話に加筆修正したものです。

業が深い?

 最近の葬儀では、「式中初七日」といって、葬儀の際に一緒に初七日法要を行うことが一般的になっています。いわゆる「式中初七日」というものです。自分の親の葬儀は20年以上前ですが、当日に火葬した後に初七日を行う「戻りの初七日」でした。今はほとんどありません。葬家や参列者の負担を軽減するということもあるのでしょう。

七本塔婆です。七日ごとの法要を終えると裏返しにしていきます。

 

 ところが、最近葬儀をした方が、初七日はもちろん、七日ごとに法要をしてほしいと言ってこられました。不思議に思って、尋ねたところ、「見える」という方から「あなたのお母さんは業が深いから、丁寧に供養しないといけない。」というようなことを言われたそうです。

 

 業が深い

 

 一見、仏教的に意味のある言葉のように感じるかもしれません。しかし、そうではありません。「業」は仏教用語(仏教というよりもインド思想一般に用いられる言葉)ですが、「業が深い」という表現は、厳密には、仏教的には存在しません。辞書などでは、「前世での罪が深く、その報いを多く受けている様子などを意味する表現」と説明されています。転じて、単純に「欲深い、運が悪い」といった意味でも使われているようです。

 そもそも「業」というと、マイナスのイメージがつきまとうかもしれませんが、そうではありません。元となったインドの言葉である「カルマ」にしても「行動、行為」といった意味しかありません。ですから、「善業」もあれば「悪業」もあります。ついでにいうと、どちらでもない「無記業」なんていうものもあります。

 そして、「因果応報」の原理が働きますので、善業には善い結果がもたらされるわけですし、その反対も然りです。中には、悪い奴ほどよく眠る、で、悪業を積み重ねているのに、のうのうと生きている奴ばかりじゃないか、と思うかもしれません。大丈夫です、安心して下さい。自分たちの積んだ業は、善いものも悪いものも漏らさずに「記憶媒体」のようなものに蓄積されています。そして、「死に逃げ」は許されません。仏教の中でも、死んだらリセット、という考え方のところもあるようですが、少なくとも、真言宗では違います。アリ一匹を踏み潰したしまった悪業も、『蜘蛛の糸』のように、気まぐれで蜘蛛一匹を助けたささいな善業もちゃんと記憶されて、次の世界に持ち越すわけです。

 

 そういうわけで、仏教的には業に深いも浅いもないわけです。

 

 今回、亡くなった方は90歳くらいの方でした。一方、「見える」方は30歳前後の方のよう(もっと若ければごめんなさい)です。なんと無礼で失礼ではないか、と思いました。それだけ長く、この面倒くさい娑婆の世界で生きていれば、善業も悪業もたくさん積むのは当たり前です。たとえ「欲深い」という意味での業の深さがあったとしても、それは家族のために頑張った証だったりするわけでしょう。それを若造が、頭ごなしに否定する、さらには不安をあおる物言いをしたことがどうしても許しがたいのです。

 

 そして、本当に悪業ばかりを積んだ「業の深い」ひとならば、こうやって子供さんに手厚く供養されることすらないのではないでしょうか。

 

 本日は、そういう意味で、お身内の方がそれぞれ都合をつけて、故人様の前に集まり、手を合わせてくださっています。きっと故人様も、「俺、この世でちゃんとやったんだよな。善業積んだんだよな。」と安心されたり、誇らしく思われていることでしょう。そして、そう思わせてくれた皆様に感謝されていることだと思います。

 

※ 令和6年5月から6月にかけての回忌法要での法話に加筆修正したものです。

 

戒名に思いをめぐらせる

 あるときAという業者さんからこのようなご依頼がありました。施主様のお母様が危ない状態で、心穏やかに最期を迎えることができるように戒名をつけてほしいという内容です。いわゆる「生前戒名」というものです。本来であれば「戒名」である以上、面前で戒を授ける作法をしなければならないのでしょうが、事情が事情ですので方便として電話でやり取りをした上で、書簡にて戒名を授けました(生前戒名については問題点が指摘されています。また別の機会にお話ししたいと思います)。

 

 それから半年くらいして、今度はBという業者さんから葬儀の依頼がありました。内容としては、既に生前戒名をもらっている方なので、その戒名で葬儀をしてほしいとのことです。その戒名は分かり次第、伝えますと。

 その後、伝えられた戒名は、自分が半年前につけたもの。偶然にも、以前に戒名を授けた方の葬儀をすることになったのです。業者も違いますし、葬家さんも「できれば真言宗の寺で」、としかリクエストしていなかったそうですから、本当に偶然です。葬家さんも自分も驚きました。もしかしたら、戒名によって縁ができていたのではないかと思います。

     

 戒名のつけ方にも色々と約束があります。真言宗でしたらフルバージョンだと

        AA院BBCC居士

のような形式をとります。Aが院号、Bが道号、Cが狭い意味での戒名となります。

 一例を挙げると、Bの部分には一文字「実字」という、実際に存在しているもの(「山」とか「海」とか)を入れる。

 日常、熟語として使うものはそのままでは使わない(「仁義」とか「美徳」とか)。どうしても使いたいならば分割する。もちろん仏教用語で分割すると意味がなくなってしまうものはそのまま使います(「一乗」とか「金剛」とか)。

 他にも、Bでその方の生き様を表し、Cでこれからの仏としての在り方を表すようにする、と主張する方もおられますが、自分は、BとCを分けずに全体として、生前の姿とこれからの仏としての理想の姿を表すように作成しています。

 もっと厳格なものでは、漢字の読み方には四声がありますが(漢詩を学んだり、中国語を学んだ方なら分かりますね)、Cの最後の文字は平声でなくてはならない、なんていうのもあります。但し、これは音の響きを大切にせよ、くらいに読み替えて、自分はさほどこだわってはいません。

 さらには、故人様の俗名の一部を入れたり、葬家の方のリクエストを考慮したりすることになるので、原則通りにつかないことも多いです。

 

 最近では、戒名は要らない、といって俗名の葬儀をする方もおられます。しかし、子供が生まれたときに、親が健やかに育つことを願い、名前を付けるのが「命名」、残された子供が親に感謝し、あの世での平安を願って贈るのが「戒名」とも言います。最後の親孝行くらいしてほしいと思います。また、この世では「名前負け」なんてありますが、仏さまの世界では名前が仏さまの功徳をストレートに表したりします。

 うちの本尊の薬師如来様も名前の通り健康祈願に験がある仏様です。阿弥陀さんはもともと法蔵菩薩という名前だったのですが、如来に「出世」される際に「阿弥陀」と改名されます。これはサンスクリットの「アミターバ」の音写で「無限の光」を意味します(「アミターユス」=「無量寿」というパターンもあります)。まさに地獄に仏、とばかりに、頼ってきた方はどんなに悪党であっても、漏らさずに救ってくださる阿弥陀様にピッタリのお名前だと思います。そう考えると、戒名は故人様の仏さまの世界での活躍に力を与えるのではないでしょうか。むしろ「名は体を表す」世界なのです。

 

 お盆を前に、ご先祖様のお位牌をじっくりご覧ください。そして想像してください。こんな戒名がついているということは、こんな人柄だったのかな。そして、今はこんな仏さまになっているのかなあ、と。

 会ったことはなくとも、子々孫々を見守ってくれている仏さまたちです。より一層、親しみをもって手を合わせることができるのではないでしょうか。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和6年5月号の内容を加筆修正したものです。

地位が人を作るのか?

 昔話をします。

 もう10年以上前のことです。高野山塔頭で役僧をしながら、高野山大学に通っていました。と言っても正規の学生ではなく、科目履修生としてです。加行は終わったものの、実習という部分での経験値が絶対的に足りなかったため、塔頭で寺院の日々の業務を学ぶとともに、大学で僧侶に必要な実技を身に着けたいと思ったからです。具体的には教学実習科目といわれる常用経典、声明、布教、法式などです。

 常用経典はお経の意味を学ぶとともに実際にお経を唱える科目、声明は経に節がついた歌のようなもので、ともに実技試験です。名簿順にみんなの前で、唱えていくのですが、両科目とも自分の前の方が「壊滅的」な方でした。

 たとえば、理趣経を順番に唱えていくというテストでは、彼が何を唱えているのかさっぱり分かりません。ですから、自分は次にどこから唱えればよいのかすら分かりません。先生も分からなかったようで、「(とりあえず)次は○○のところから読んで。」と指示してくださったほどです。

 声明もひどかったです。多分ジャイアンリサイタルよりひどいです。なるべく聞かないようにして自分の番を待ちましたが、幻惑されて頭出しの音を大きく外してしまいました。おそるおそる、先生にもう一度やり直させてください、と申し出ると、先生も哀れに思ったのでしょうか、お許しが出ました。いつもは厳しい先生なのですが。

 一緒に受けていた同級生からは、同情されていました。本当に、彼のせいで単位を落としてしまったらどうしようと、自分の不運を嘆くとともに、彼のことを腹ただしくさえ思っていました。無事に単位が取れたときは、心からほっとしました。

 

 なぜ、こんな話をしたのか。

 先日、仁和寺悉曇灌頂というものを受けてきました。三年越しで、児玉先生より澄禅流の悉曇を教えていただき、「卒業式」のようなものです。ただし、密教ですので、法流を伝える重要な儀式である灌頂があります。内容は詳説できませんが、長時間にわたり様々な真言を唱えたりします。そして、自分の隣の方が、「懐かしい(笑)」彼でした。

 長くてややこしい真言は、ぼそぼそと唱えていました。しかし、簡単な真言になると、元気溌剌で唱え始めました。でも・・・間違っているんです。さらには声量を大きくしたり小さくしたり、一定のリズムで唱えることなく、好き勝手なビートを刻む彼。10年以上たっても変わっていませんでした。そして、それに幻惑されてストレスが溜まっしまう器の小さい自分。自分も変わっていませんでした。

 

 悉曇にも色々な流派があります。慈雲流で知られる慈雲さんは「灌頂を受けたって、悉曇がうまくなるわけではない。」との考えから、悉曇灌頂を開きませんでした。代わりにこの流では卒業試験のような「考試」というものがあります。

 

 よく「地位が人を作る」と言います。

 しかし、悉曇灌頂を受けて「悉曇阿闍梨」となったからといって、悉曇が上手になるわけではないということは、慈雲さんのおっしゃる通りでしょう。その肩書にふさわしくあろうという決意と努力が無ければ、資格コレクターにすぎないでしょう。

 

 自分の周りで、新たに得度を受けて、僧侶になったという方を結構目にします。しかし、僧侶になること自体では、髪形以外ほとんど何も変わりません。

 僧侶としての戒を授かり、仏さまの弟子となったことを自覚して、そのことにふさわしく生きていこうという決意が伴ってはじめて、「変わった」ことになるのだと思います。そうでなければただのコスプレです。

 

 信徒さんについても同様です。カルトならば、優しい言葉で「うちの教団に入ったら誰でも幸せになれるよ。」と甘言を弄するかもしれません。しかし、真っ当な仏教では、そんなに甘くありません。肩書上、檀信徒になったからと言ってそれだけで何かが変わるわけではありません。真言宗であれば、自分の中の仏を見つけ、仏の子として恥じないように生きていこうという決意があってはじめて「変わる」ことができるのでしょう。

 

 では、僧侶になるとか、信徒になるとか、ということ自体に意味はないのか、というと、そんなことは決してありません。

 私たちは、何かきっかけがないと、大きな決心をするのは難しいですから。

 

 縁なき衆生は度し難し

 

 お釈迦様の言葉です。せっかく仏縁を得たのです。仏の子、仏の弟子となったわけです。これは特別なことです。ただ、それだけではもったいないです。

 地位とそれにふさわしくあろうという決意があれば人は大きく変われるのです。

 

 オン ボウジシッタ ボダハダヤミ

 

 お馴染みの発菩提心真言です。信心をおこして、覚りを目指すという決意表明です。常に口にして、仏作って魂入れず、とならないように気を付けたいものです。