最近の葬儀では、「式中初七日」といって、葬儀の際に一緒に初七日法要を行うことが一般的になっています。いわゆる「式中初七日」というものです。自分の親の葬儀は20年以上前ですが、当日に火葬した後に初七日を行う「戻りの初七日」でした。今はほとんどありません。葬家や参列者の負担を軽減するということもあるのでしょう。
ところが、最近葬儀をした方が、初七日はもちろん、七日ごとに法要をしてほしいと言ってこられました。不思議に思って、尋ねたところ、「見える」という方から「あなたのお母さんは業が深いから、丁寧に供養しないといけない。」というようなことを言われたそうです。
業が深い
一見、仏教的に意味のある言葉のように感じるかもしれません。しかし、そうではありません。「業」は仏教用語(仏教というよりもインド思想一般に用いられる言葉)ですが、「業が深い」という表現は、厳密には、仏教的には存在しません。辞書などでは、「前世での罪が深く、その報いを多く受けている様子などを意味する表現」と説明されています。転じて、単純に「欲深い、運が悪い」といった意味でも使われているようです。
そもそも「業」というと、マイナスのイメージがつきまとうかもしれませんが、そうではありません。元となったインドの言葉である「カルマ」にしても「行動、行為」といった意味しかありません。ですから、「善業」もあれば「悪業」もあります。ついでにいうと、どちらでもない「無記業」なんていうものもあります。
そして、「因果応報」の原理が働きますので、善業には善い結果がもたらされるわけですし、その反対も然りです。中には、悪い奴ほどよく眠る、で、悪業を積み重ねているのに、のうのうと生きている奴ばかりじゃないか、と思うかもしれません。大丈夫です、安心して下さい。自分たちの積んだ業は、善いものも悪いものも漏らさずに「記憶媒体」のようなものに蓄積されています。そして、「死に逃げ」は許されません。仏教の中でも、死んだらリセット、という考え方のところもあるようですが、少なくとも、真言宗では違います。アリ一匹を踏み潰したしまった悪業も、『蜘蛛の糸』のように、気まぐれで蜘蛛一匹を助けたささいな善業もちゃんと記憶されて、次の世界に持ち越すわけです。
そういうわけで、仏教的には業に深いも浅いもないわけです。
今回、亡くなった方は90歳くらいの方でした。一方、「見える」方は30歳前後の方のよう(もっと若ければごめんなさい)です。なんと無礼で失礼ではないか、と思いました。それだけ長く、この面倒くさい娑婆の世界で生きていれば、善業も悪業もたくさん積むのは当たり前です。たとえ「欲深い」という意味での業の深さがあったとしても、それは家族のために頑張った証だったりするわけでしょう。それを若造が、頭ごなしに否定する、さらには不安をあおる物言いをしたことがどうしても許しがたいのです。
そして、本当に悪業ばかりを積んだ「業の深い」ひとならば、こうやって子供さんに手厚く供養されることすらないのではないでしょうか。
本日は、そういう意味で、お身内の方がそれぞれ都合をつけて、故人様の前に集まり、手を合わせてくださっています。きっと故人様も、「俺、この世でちゃんとやったんだよな。善業積んだんだよな。」と安心されたり、誇らしく思われていることでしょう。そして、そう思わせてくれた皆様に感謝されていることだと思います。
※ 令和6年5月から6月にかけての回忌法要での法話に加筆修正したものです。