釈迦に説法

 年頭から、愚痴をお許しください。

 

 ごくたまに「お経、上手ですね。」と言われることがあります。

 その後、おっしゃった方は失礼なことを言ったのかと恐縮されたりします。

 

 たしかに、プロ野球選手に

 「野球、上手ですね。」

と声をかけるのはナンセンスかもしれません。

 でも、「守備がすごいですね。」とか「足速いですね。」ならありではないでしょうか。みんなが「走攻守そろった」人ばかりではないでしょうから。

 

 同じように、僧侶だからと言ってみんなお経が上手なわけではありません。

 高名な僧侶の方で、徳が高い方でも、お経となるとそれほどでもという方が少なくないように思います。

 

 そういう意味では、お経が上手であることは、僧侶の「必要条件」ではないと思います。

 

 先日、ある自称「見える系」の方からこんなことを言われました。

 「あなたを仏さんが見守っています。」「ご本尊さんですね。」

 

 なんかもやもやしてしまいました。

 

 私たち僧侶は、仏さまの存在を信じています。

 どんな時でも見守ってくれていて、導いてくれると信じぬいています。

 

 だからこそ、今日の護摩でも、様々な供養をして、祈願をしているのです。

 それを信じていなければ、変な呪文を唱えて、変な手の形を作っているだけの「痛い」人です。

 

 伝授でお世話になった大阿闍梨さんは常々こう言っておられます。

 「皆さんには、詐欺師になってもらいたくありません。」

 

 自分が仏さまの存在、力を信じていないのに、形だけ修法をしたり、お経をあげて、救いを求めている方からお布施をいただくのは詐欺行為そのものです。

 

 そういう意味では、仏様への信仰というか「信頼」は、僧侶であることの「必要条件」だと思います。

 

 ご本尊様が守ってくれてますね、だと?・・・・・・当り前じゃ(失礼)

 

 何も、「見える系」の方を全否定しているわけではありません。

 見える系の方にもパターンがあると思うんですね。

 ①本当に見える人 ②見えるような気になっている人 ③見えていないのに、見えているように装い、お金を巻き上げる人。

 ③はまさしく詐欺師ですね。

 絶対に許しません。

 

 でも、寺にいるとそういう方が結構寄ってくるんですよね。

 「護身法」の結び方が不十分なのかと自信がなくなりそうです。

 

 自分たちは、行の前後に「護身法」というものを結びます。

 行が始まると真っ先に行います。

 ごく簡単に説明すると、仏さまと対話するのにふさわしい身づくろいをして、その対話の邪魔が入らないような準備です。

 

 一方、行の終わりにも護身法を結びます。

 仏様との対話が終わっているのになぜでしょうか。

 それは、聖なる空間を出て、「魔の多い」娑婆の世界に帰っていくからです。

 

 護身法の印明(印と真言)の中に「甲冑印」というものがあります。本当に指で兜の形のような印を結んで、真言を唱えるものです。

 一般的には「かっちゅういん」と読みます。

 しかし、自分たちは「こうちゅういん」と読み習わしています。

 

 それは、「かっちゅう」が、武士が刀や槍などで命をやり取りするための防具であることと区別するためとも言われています。

 

 私たちが「魔」と戦うための武器は刀剣などではありません。

 「慈悲」こそが武器なのです。

 

 刀剣などでは相手を切り伏せておしまいです。

 しかし、慈悲が武器であれば、倒された相手も「慈悲を備えた人」として再生するのです。

 そこには怨恨も残りません。相手をも「仏様陣営に」引き込んでしまう最強の武器です。

 

 面倒くさい人に出会っても、「慈悲」の武器でコテンパンにしてやりましょう。

 

※ 令和5年 1月初薬師護摩での法話に加筆修正しものです。