人間の矜持

 今年は新年早々、大変なことになっております。

 今日の護摩の祈願でも触れておられる方もいらっしゃいましたが、能登地方の震災のことです。

 それだけでも辛いのに、さらに心が痛いのは、火事場泥棒のような輩が現れていることです。日本人のレベルもここまで堕ちたのかと情けなくもなります。

 

 震災でうちひしがれている方の財産をかすめ取る行為、さらにはそのために集められた募金を盗む行為、お金持ちから盗みを働きそれを庶民にばらまく鼠小僧のような義賊の行為、すべて刑法上は等しく窃盗罪です。

 しかし、私たちの一般的な心情では、前の2つの窃盗行為を特に許しがたいと感じるのではないでしょうか。

 実際に量刑を左右する情状の部分で、募金の窃盗について単なる財物だけではなく「人の善意」をも侵したゆえに、重く罰せられた判決があったように記憶しています。

 

 最近はAIが発達して、多くの職業がAIにとって代わられる時代が近い、という話もあります。しかし、上のような裁判の場面で、人の心を加味する判断は苦手なのではないでしょうか。もっともAIが進化すれば、本当に反省しているかどうかを見抜いたりできて、良い面も出てくるかもしれませんが。

 

 一方で、同じ「審判」ということで、野球の審判については本気でAIの導入が語られています。実際、自分のひいきのチームが絡むと、ストライクゾーンでイライラすることもあり、AIでもいいんじゃないかと思うこともあります。

 しかし、一方で、人間の審判ならでは、という素敵なシーンもあります。

 高校野球好きの方ならご存じの方も多いかもしれませんが、山口さんというアマチュア野球の審判の方がおられます。「高校野球 審判 山口さん」などと入力すれば、動画でもご覧いただけると思います。是非、実際に見ていただきたいと思います。

 その方は本当に選手に寄り添った審判として有名です。エピソードはたくさんあるのですが、そのひとつを挙げます。試合終了のとき、両チームが整列して挨拶をします。負けたチームはうなだれて、涙を流してしゃくりあげています。そんな彼らに「顔を上げろ、大丈夫」などと声をかけるのです。君たちは敗者ではない、戦い抜いたことに胸を張りなさい、という意味の最高のねぎらいの言葉をかけるのです。こんなことはAIにはできないことでしょう。

 

 冗談みたいな話ですが、ロボットの僧侶も現れています。人間よりも安くできる、という話です。しかし、修業はどうするんでしょうか。僧侶って、上手にお経をあげるだけではないんですけどね。さすがに、生身の僧侶が取って代わられることはないと信じています。

 

 外見的に同じことをするにしても、そこに「心」をこめることを等閑にしない。

それこそが人間の矜持なのだと思います。

 

※ 令和6年1月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。