仏教は哲学ではない

 お寺にいますと、檀信徒以外の方から、色々な質問を受けることがあります。

 先日は、電話にて「ふきょうし」になりたいとの相談を受けました。

 どうやら高野山真言宗の「本山布教師」のことのようです。高野山内の金剛峯寺などで布教をする僧侶のことです。お大師様のお膝元で、宗門を背負って布教をする立場ですので、講習会を受け、試験を突破しなくてはなりません。そして、その受講資格は、教師、すなわち加行を終わって住職資格を持っていることです。

 そのことをその方に告げると、「高齢で身体に自信が無いため、加行はできない」とのこと。しかし、「仏教に対して知識は十分あるから、どうにかならないか」と食い下がります。

 そこで、「別に本山でなくても僧侶であればどこでも布教はできますし、むしろそうすることが僧侶の責務ですよ」と申し上げました。

 すると今度は、「まだ普通の仕事もしているので、髪を剃らずに得度できませんか?」。

     

 どうやら、この方は仏教を「信仰の対象」ではなく「知識や学問の対象」としかとらえていないように思いました。

 実際、仏教と哲学との区別は難しく、重なり合う部分も多いです。真理を求め続けるという点などは共通部分です。むしろ、真理を求めようとしないものは「仏教もどき」ではないでしょうか。

 では、異なる部分はどの点か、というと「体験」「実践」を伴うかどうかだとも言われます。

 仏教も宗教である以上、実際の信仰、信仰に伴う宗教的行為や活動を通じてしか理解できない部分があり、そこに本質的なものが多く含まれているというのです。

 実際、在家出身でわざわざ僧侶になろうという人の中には、死を覚悟するような大病から生還した、人生のどん底から光明を見出した、といった「奇跡」をきっかけとしている方が多いです。そして、その方たちは強固な信仰心をもち、とりわけ熱心な方が多い様に見受けられます。

 もちろん、お寺に生まれた方でも、名僧になられたような方の話には、そのような逸話を目にすることが多いように思います。

 では、そのような貴重な奇跡体験をしないと強固な信仰心は芽生えないのでしょうか。仏教の真髄に触れることはできないのでしょうか。

 

 違うと思います。

 奇跡体験をするのではなく、奇跡体験に気づいて、意識して、感謝することが必要だというのが正しいのだと思います。

 

 どういうことでしょうか。

 

 以前にも書きましたが、お釈迦様はこうおっしゃっています。

人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。」

 人に生まれたことの奇跡、しかも、仏教をはじめ、色々なことに思いを巡らす余裕のあるこの平和な世界に生まれた奇跡を、私たちは当たり前のように思ってしまいがちです。しかし、こんなチャンスはもう無いかもしれません。

 

 勤行で最初に唱えることの多い開経偈は、そのことを再確認して感謝する宣言です。

  

  無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)

  百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)

  我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅーじ)

  願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)

 

 どんなに上手くお経を唱えるよりも、自分の置かれた環境が奇跡であることに感謝してから唱えるお経の方がどんなにか素晴らしいものになるでしょう。

 誰もが「奇跡の存在」です。大切に生きていかなくてはならないですね。

 開経偈、是非とも口に出してお唱えください。

 

※ 令和6年2月 寺報「西山寺通信」26号の内容を加筆修正したものです。