毘沙門灌頂 ~ 二密ではダメ

 もう寅年も終わりですね。

 うさぎさんが、ウォーミングアップを始めていることでしょう。

 

 寅年限定のイベントとして、奈良県にある信貴山にて毘沙門灌頂が行われ、自分も受けてまいりました。

 

 「灌頂」については今までも何度かお話してきました。

 もともとはインドで王様が新たに即位する際に、四海の水を頭にかける(頭の頂に灌ぐ)作法が、密教にも取り入れられたものです。

 密教では、曼荼羅や仏さまと深く縁を結ぶ儀式として、節目節目の重要な場面で受けることになります。

 今回は、文字通り毘沙門天さんの知恵と慈悲の水を頭に灌いでいただき、毘沙門天様と「入我我入(にゅうががにゅう)」すなわち一体化する荘厳なものでした。

 

 そして、毘沙門天さんと縁を結んだ証に「パスワード」のようなものを授かります。

 それが真言と手印です。

 毘沙門灌頂で授かる真言と印は5種類あって、自分は今回で2種類目でした。年齢的にあと3つコンプリートするのは難しいかもしれません・・・。

 

 灌頂の最後に管長猊下から、印と真言を授かりました。

 さらに、丁寧にお話もいただきました。

 内容を完全に再現することはできないですが、印と真言だけではダメということでした。毘沙門天様と縁を結んだ以上は、自分自身が毘沙門天様の手となり足となり行動しなければならないこと。自分だけが幸せになるための儀式ではないこと。毘沙門天様の慈悲と知恵で人のために尽くそうという心が伴っていなければいけない、ということでした。

 

 密教パワーワードで「三密行」というのがあります。身・語(口)・意の三つの働きを浄めるとそのまま仏になるというものです。

 印を結び、真言を唱えるというのもそうです。

 印を結ぶことが「身」、真言を唱えることが「語」を浄める働きです。

 しかし、それだけではダメなのです。心が伴っていないと、ただの「おままごと」になってしまうわけです。

 

 今回の毘沙門灌頂は、僧侶だけが対象のものではなく、むしろ在家の方がメインターゲットのものです。そのような場で、三密の「心」の重要性を丁寧に説いてくださったことに感謝しました。

 

 その後、お接待ということでお膳を用意していただきました。

 美味しくいただいていると、ガヤガヤと女性数人のグループが隣に座られました。

「黙食」という言葉はこの方たちの辞書には掲載されていないらしく、聞きたくもない話がどんどん耳に入ってきます。

 

 「あの席の並べ方では、お坊さんの手とか見えへんかったわ。しゃあないから、立って見たわ。横の坊さんは変な顔しとったけどな。アンケートあったら、書いとかなあかんな。席の並べ方をもっと工夫せいって。そういう意見は大事やろ。向こうのためにもなるで。前に〇〇寺(京都の有名な禅寺)の体験に参加したときは良かったわ・・・(以下略)」

 

 印と真言は手に入れられたようですが、毘沙門天様の心は忘れ物をされてきたようです。

 

 ところで、普段みなさんがしている合掌も立派な印です。

 左手が私たち衆生、右手が仏様を表しています。

 ですから、合掌は私たちが仏さまと一体であること、仏さまがいつも私たちの近くにいらっしゃることを意味しています。

 仏壇や寺で手を合わせるとき、少し時間をとって、そのようにイメージしてください。

 それから、真言やご宝号を唱えたら、立派な三密行です。

 意外と、気持ちを整えることを忘れてしまっていませんか。それではもったいないです。

 

 もっと早く毘沙門灌頂の話をしてくれれば、自分だって受けたかった、という方もいらっしゃるかと存じます。12年は待ちきれないという方もいるでしょう。

 

 代わりにはならないですが、在家の方でも受けることのできる灌頂はほかにもあります。

 高野山でも、例年5月と10月の頭に、それぞれ胎蔵曼荼羅の仏さまと金剛界曼荼羅の仏さまと縁を結ぶ「結縁(けちえん)灌頂」が行われますので、興味のある方は是非受けていらしてください。もちろん「パスワード」もいただけますが、それ以上に素晴らしいものが得られると思います。

 

※ 令和4年11月の薬師護摩での法話に加筆修正したものです。