令和5年 花まつりの話 

 今日は花まつりです。

 すでに玄関にいらっしゃったお釈迦様に甘茶をかけてくださった方もいらっしゃると思います。

 

 お釈迦様は、覚りを開かれた方ですが、ゴーダマ・シッダールタとして生を受ける前、前世において様々な徳を積まれてきたとされます。

 今日は、そんな話の一つを紹介します。

 

 お釈迦様が雪山童子という方だった時の話です。

 雪山というのはヒマラヤのことですが、そこで一生懸命修行されていました。

 当時の修業のメインは苦行と瞑想です。一生懸命、頑張っているのですが、覚りにはいたることができません。どうしようかと悩み、苦しみます。

 

 するとどこからか声が聞こえてきます。

 

 諸行無常 是生滅法

 

 諸行無常は、平家物語でおなじみのフレーズですね。

 この世に存在するあらゆるものに永遠のものはない。生じては形を変え、ついには滅びる。それに執着するのは苦である、という意味です。

 

 童子は、これぞ求めていた真理であると喜びます。

 そして、是非続きが聞きたいと思い、声の主を探します。

 

 するとそこには鬼がいました。

 普通なら逃げ出したいところですが、真理を求める気持ちから、鬼にお願いします。

 「どうか、その続きを聞かせてください。」

 

 それに対して、鬼は「役割通りの」返答をします。

 「おまえを食わせてくれるなら聞かせてやろう。」

 

 雪山童子は、躊躇なく自分の身を犠牲にすることを選びます。

 

 鬼は約束通り、続きを聞かせます。

 

 生滅滅已 寂滅為楽

 

 変わりゆくものに対する執着を捨て去ったとき、本当の心の平安が得られるという意味です。

 

 さあ、約束通り、お前を食わせろ、という鬼に対して、童子は少しだけ待ってくれるように頼みます。

 折角の素晴らしい真理なのに、自分が食べられたら、誰にも伝えることができない。

だから、岩にこの文言を刻んで残したいというのです。

 そして、すべての文字を刻み終わったとき、童子は約束通り、身を捨てて鬼に捧げます。

 すると、鬼は本来の姿である帝釈天に戻り、童子の真理を求める姿を称え、いずれ仏陀となることを告げました。

 

 この命がけで雪山童子が残した真理の言葉は、違う表現ですが、皆さんもよく知っています。

 いろは歌です。

 

 色は匂へど 散りぬるを

 わが世 誰そ 常ならむ

 有為の奥山 今日こえて

 浅き夢見じ 酔ひもせず

 

 きれいに咲き誇っていた花もいつかは散る

 この世に一つとして 永遠なるものはない

 そのようなものへの執着から解き放たれたとき

 ゆめまぼろしから覚めて 真理に至る

 

 いろは歌の作者はお大師様ともいわれています。真偽はさておき、素晴らしいものです。

 

 仏教では、空だの無だといった「辛気臭い」ワードがよく出てきます。

 おなじみの般若心経なんかその最たるものです。

 

 中には、曲解して、人は死んだら何にも無くなる、なんてことをしたり顔でいう方もおられます。

 

 いやいや、さきほどのようにお釈迦様自体が、何回も生まれ変わって「徳のマイレージ」を貯めた結果、覚りに至ってますよ。

 

 私たちの存在を波に例えることがあります。

 波は刻一刻と形を変えます。

 まさに無常です。

 そして、間もなく波は無くなります。

 しかし、波はゼロになったわけではありません。

 海に戻っただけです。というか、もともと海の一部です。

 そして、また波としてあらわれます。

 

 そんなはかない存在である波ですが、一つとして同じものはありません。

 

 誕生時に、お釈迦様はこうおっしゃいました

 

 天上天下 唯我独尊

 

 これはお釈迦様のことだけではありません。

 私たち一人一人が、唯一無二の特別な存在です。

 

 お釈迦様のあの姿には、せっかく生まれたからには、頑張って、大きな波、奇麗な波になりなさいよ、とのメッセージが込められているのかもしれません。

 

 ※ 令和5年 4月8日 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。