修業は目的ではない

 スポーツ選手に「憧れの選手は誰ですか?」なんてインタビューしているのを見ることがあります。

 同じように、自分たちが「憧れのお坊さんは誰ですか?」と言われたらどうでしょうか?本当でしたら宗祖弘法大師の名前を挙げるのが筋なのかもしれませんが、あまりにもすごい存在過ぎて、憧れや目標として名前を挙げるのすら憚られる気がします。

 

 それでも、少しでもお大師様を追いかけたいということで、同じ修業をされている方もおられます。その代表が「虚空蔵求聞持法」というものです。

 内容としては虚空蔵菩薩のご真言である「ノウボウ アキャシャ キャラバヤ オン アリキャ マリボリ ソワカ」を50日間もしくは100日間で100万回唱えるというものです。お大師様は、四国の太龍寺室戸岬で修法されました。特に室戸岬で修法された際には、明けの明星が口に飛び込む神秘体験をされ、悟りに到達されたといわれています。

 どれくらい大変か想像できないかもしれません。自分が行法でお不動さんの真言である「ノウマクサンマンダ バザラダンセンダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」を1000回唱えるというものがあるのですが、大体50分ちょいかかります。100万回の真言を100日なら一日で1万回ずつ、50日なら2万回ずつです。起きている間はひたすら真言を唱えないと間に合わない計算です。

 そんな過酷な行なのですが、自分の知っている方で、二度もこの行をされた方がいらっしゃいます。本当に頭が下がります。

 

 こんなすごいお坊さんもいると思えば、こんなお坊さんもいます。

 ある霊園の彼岸法要に呼ばれたときのことです。先輩の僧侶お二方とご一緒させていただきました。

 その法要には、いつも素敵なお菓子を差し入れしてくださる施主さんがいらっしゃいました。そのときも自分では買ったこともないようなお菓子を差し入れてくださいました。

 「どんなものが気に入っていただけるか分からないので・・・。お口に合えばよろしいですけど・・・。」

 自分と、一番年長の僧侶の方は、ただただ感謝の言葉を返したのですが、もう一人の方はというと

 「そうねえ、誰もに気に入ってもらえるものですか・・・。そうですね、米なら誰だって食べるじゃないですか。そうですね・・・お米券なんかいいと思いますよ。」等と熱弁を振るわれました。

 その間、施主の方の表情がどんどんこわばっていくのに、自分たちはフォローをあきらめました。感謝という単語が、その方の辞書には載っていないようでした。

 

 これは、知り合いのお坊さんから聞いた話です。やはり、ある霊園の彼岸法要に参加したそうです。そこでも、色々な施主さんから霊園にお菓子の差し入れがあったらしく、その一部を坊さんに、ということでいただいたそうです。

 その中に、虎屋の一口羊羹があったようで、一番年長の方が分けていったそうですが、人数でうまく割り切れなかったそうです。すると、もう一人の方が、全部箱に戻すように指示をしたそうです。そして、虎屋の羊羹を箱ごと自分のカバンにしまったそうです。そして、テーブルには「虎屋じゃない」お菓子が残されたそうです。呆気にとられて、何も言えなかったそうです。


 どうせ同じお布施を渡すなら、最初のお坊さんがいいですよね。二番目や三番目のお坊さんは願い下げではないですか。

 

 すみません。それ、無理なんです。

 何故って、これ全部、同一人物なんです・・・。

 

 すごい修業や苦行をしたことが、その方の人柄を保証するものではありません。修業はそれ自体が目的ではなく、手段でしかありません。何のための手段かというと、たとえば「上求菩提 下化衆生」とか、でしょうか。自分の覚りを目指す一方で、衆生を救うという意味です。

 

 今日は、護摩に参加していただきました。修業といって良いでしょう。もちろん、個人的な願い事を込められた方も多いでしょう。自分も、それが仏さまに届くように修法致しました。しかし、それが最終目的ではありません。

 健康を手に入れたならば、その身体を使って世のために働く、財産を手に入れたならば、それを社会に有用なことに使う、というところまで思いをめぐらさないと、ダメなのでしょう。神仏もそういう方に手を貸してくださるのだと思います。

 

※ 令和6年3月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。