涅槃図 2024

 今年も2月の間は涅槃図を展示しています。

 お釈迦さまが入滅されたのは、はっきりした年代は争いがありますが、紀元前5世紀ころの2月15日とされています。

 そのことから、お釈迦さまへの報恩の意味で涅槃会を執り行うお寺も多いです。拙寺でも、派手な法要は致しませんが、涅槃図をご覧いただくことで、お釈迦さまの遺徳を讃えています。

 

 涅槃図には色々なメッセージが込められています。その中のいくつかを紹介したいと思います。

 

 お釈迦様は生身の人間なのですが、特別な方だということで、普通の人とは異なる特徴を備えたとされます。あの独特の髪形や眉間の白毫というのもそうです。ついには「ビッグな」存在というのが物理的な意味でも「ビッグな」存在であらわされるようになり、身長は5m近くになってしまいます。

 

 そんな超人みたいな方ならば、不老不死も可能だったんではないだろうか。そして、人々を導き続けてくれてもいいように思わないでしょうか、と思いませんか。これについては、自ら「無常」を伝える必要があったなんていう理由をあげる方もおられます。他には、自分が死なないと、みんな甘えてしまって本気で覚りを目指さないからだったという理由をあげる方もおられます。

 なるほど、いつでも頼れる人が近くにいると、自分でどうにかしようという気持ちが弱くなってしまうかもしれません。

 実際に、いつもそばに付き従っていた阿難さんというお弟子さんは、一番近くでお釈迦様の教えを聞いていたのに、まだ覚りに至っていません。それなのにお釈迦様が亡くなると知ったときの嘆き方は半端ではないです。涅槃図でも地面に這いつくばって派手に悲しんでいる姿で描かれています。

 

 しかし、お釈迦様は最後に仰います。

「自らを燈明とせよ 法(正しい教え)を燈明とせよ。」

 結局は、自分でどうにかしなくてはならないのです。そして、頼るべき正しい教えはすでに伝えてあるだろうと仰ったのです。別の場面では「私はもう拳を握っていない」すなわち、手の内に隠したものはもう何もないよ、と仰っています。

 

 お釈迦様は亡くなっても、人々を救いたいという思いや、そのための教えというものは不変です。それを示すのが後方の木です。平家物語の冒頭でも有名な沙羅双樹の木が、右と左に4本ずつ描かれています。よく見ると、葉の色が違うのに気づくでしょう。右は枯れていますが、左は青々としています。これは、お釈迦様の肉体が滅んでも、その思いや教えは変わらないことを表しています。

 何もお釈迦様に限ったことではないでしょう。私たちも、死んだら終わりというわけではないです。思いや影響力はこの世に残るものです。

 

 そして、このスパルタは功を奏して、阿難さんはお釈迦様が亡くなってほどなくして覚りを開きます。

 

 ただ、優秀なお釈迦様のお弟子さんならそれでいいのでしょうけど、凡人としては心細いです。では、お釈迦様の次に仏さまになられる方はいないのでしょうか。

 実は、予約が入ってます。弥勒菩薩さんが次に仏すなわち如来になられます。国宝第一号として知られる広隆寺さんの弥勒菩薩さんをご存じの方も多いですね。あの頬に指をあてて考え込まれている姿は、仏になってどうやって衆生を救おうかと考えをめぐらしてくださっているのでしょう。楽しみですね。でもそれって、56億7千万年後です。現在は兜率天というところで長ーいウォームアップ中です。

 

 そのため仏さまが娑婆の世界に不在である今を「二仏中間(にぶつちゅうげん)」と表現することもあります。中には、お釈迦様が亡くなってから、釈迦様の教えが残っている時代(正法)、表面上の形だけが残っている時代(像法)、そして形すら残っていない最悪の時代(末法)に分ける末法思想というものも生まれます。ちょうど今大河ドラマでやっている摂関政治の時代が、末法に入ったと考えられ、生きているうちに希望を見出すことをあきらめて、死後に素晴らしいところに行くことに希望を全振りするという浄土思想につながります。平等院鳳凰堂などは浄土への強いあこがれを具現化したものです。

 

 ただ、この二仏中間の時代であっても救いはあります。

 たとえば、お地蔵さんの存在です。お地蔵様はこのような救いのない時代を、昼は生きているもののため、そして夜はあらゆる地獄を駆け回り、亡者を救ってくださっています。

 

 そして、弘法大師さんもそのような方です。

 仏法という難しい「教科書」だけを手渡されて勉強しろ、ということが難しいことを理解してくださっています。ですから、沢山の「参考書」を残してくださいました。仏教の宗祖で、お大師様ほど著作が残されている方はいらっしゃらないと思います。

 それでも大変、という私たちのために「家庭教師」もしてくださっています。ご自身が奥の院で瞑想されているほか、先に述べた弥勒菩薩さんのいると兜率天で修業されるだけではなく、衆生のもとに駆け付けてサポートしてくださっているわけです。

 

 お釈迦様に比べると、かなり過保護かもしれません。

 私たちが仏を目指すにしても、自分自身が困窮していてはそんな余裕もないだろう、ということで手助けもしてくださっているわけです。

 密教の得意とする加持祈祷なんて、仏教の本筋ではないという方もおられますが、私たちが万全の心身で、仏を目指すためのサポートという意味で重要なものです。そういう意味では、自分が幸せになればそれでOKという加持祈祷は仏教の本筋ではないといえるでしょう。その先があってこそです。

 

 本日の護摩で、心身ともにすっきりしていただけたかと思います。仏となる、仏さまのお手伝いをする素晴らしい一か月としていただければと存じます。

 

※ 令和6年2月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。