先日、理趣経灌頂を受けてきました。
最近、似たような記事を読んだぞ、と思われたかもしれません。
先日の記事は「毘沙門灌頂」でした。今回は理趣経灌頂です。
灌頂とは仏さまと強いつながりを結ぶ儀式ですので、色々な場面で受けることになるということはこれまでも書いてきました。密教ではメジャーな単語ですね。
そして、理趣経は真言宗ではあらゆる場面で唱えられるお経です。
よく勉強されている方なら真言宗の最も重要なお経は「両部の大経」と呼ばれる大日経と金剛頂経だろ、とおっしゃるかもしれませんが、それらは覚りに至るまでの「ハウツー」を記したお経で、日々お唱えするお経ではありません。
葬儀であろうと回忌法要であろうと、そして日々のお勤めであろうと、私たち真言僧は理趣経を唱えます。そういう意味で最もメジャーなお経です。
そんな真言密教にとってメジャーな単語である「理趣経」と「灌頂」ですが、それらを組み合わせた「理趣経灌頂」という単語はメジャーではないようです。
自分が勉強不足なだけかと思いましたが、実際に理趣経灌頂の「印信」のことが出てくる流派はほとんど見当たらないようです(今回は印融さんの系統らしいです)。
今回の内容に関しては録音も許されないもので、詳しく書くことはできませんが、非常に身の引き締まる思いのする内容でした。
それをいいことに、理趣経さえ読めれば飯が食えるくらいに思っている僧侶が多いのではないか。
理趣経とは「理に趣くための経」である。
意味も理解せずに読んでも無意味である。
そして、理趣経はただ読むためのものではない、
理趣法のために読誦するためのものである。
私たちにとって重要なのは三密行であるが、理趣法は三密行である。
‥等。
今はあまり触れられることが少ない「理智事三点説」などのお話もあり面白いものでした。
具体的なテクニックという部分では、「印信」の内容の一つが即戦力でした。
棚経などで、理趣経を最略であげる場合には「百字偈」のみということがありますが、そこに印明(印と真言)を加えるというものでした。
棚経で百字偈ベースに組み立てることが肯定されたことも安心しました。
理趣経の世界を、具体的に理解しイメージできるのに資する「理趣経曼荼羅」をお土産にいただいて、岡山から帰ってきました。
以前、後輩のお坊さんが住職としてとあるお寺に迎えられました。
在家出身で、若い方でした。
うちの宗派で、在家出身で住職になるというのは簡単ではありません。一番可能性の高いのは婿養子に入ることでしょうか。
しかし、その方はそういう「縛り」のない状態で、本当に「縁あって」住職になりました。ただ、葬儀や回忌法要などの法務の経験が少ない方でしたので、ベテランの住職に相談したそうです。
「理趣経を毎日あげること。」
アドバイスはそれだけだったそうです。本人は具体的なハウツーを聞くことができると期待していただけに不服そうでした。
しかし、その方、理趣経を毎日あげていないんですよね・・・。
風の便りでは、寺を出て行かれたそうです。
せっかくご本尊さんに呼んでいただけたのに・・・。
くりかえしになりますが、真言宗ではどんなときにも理趣経です。
天台宗のスタンダードな経本である「台宗課誦」なんかを見ると、バラエティ豊かですよね。
それなのに、理趣経は檀信徒さんと一緒に唱えるようなお経ではないんですね。
内容が誤解を招きかねないということで、横に注釈書である「理趣釈」を置いて読むべし、とされたり、現在でも建前としては「理趣経加行」を終えてからしか読んではいけないことになっています(実際には理趣経も読めないで加行に入ったらボコボコにされるのですが)。
しかし、真言宗の檀信徒さんが、自分の宗派のメインたるお経に触れることができないのはどうなのかと思います。
せめてエッセンスである百字偈については一緒に理解して、お唱えしていただくのがよいと思います。実際に、檀信徒用の経本には掲載されていることも多いですし。
ここのブログの「資料室」に百字偈と口語訳を掲載していますので、興味のある方はご覧になってください。