憧れるだけではなく

 皆さんもまだ覚えておられるかと思います。WBCでのアメリカとの決勝戦

前に、大谷選手がチームメイトにこのように言ったそうです。

「(対戦するアメリカのスーパースターたちに)憧れるのはやめましょう。憧れて

いる限り、乗り越えることはできません。」

     

 お釈迦様が亡くなられた直後、弟子たちはお釈迦様の教えを受け継いでいきま

す。

 しかし、自分もお釈迦様のようにブッダ(悟りを開いた者)になるなど無理と考え

ていました。まさしく「憧れ」の存在です。

 目指すのは、せいぜい出家者としてたどり着ける最高の境地である「阿羅漢」

でした。

 

 その後、自分たちもブッダになれる、あるいはならなくてはいけないと考える人

たちが出てきます。

 これが、大乗仏教というものにつながっていきます。

 そこでは、一部の出家者だけではなく、在家信者であってもブッダになれると

いったわけです。かなり、革新的です。

 

 日本の仏教は、この大乗仏教がほとんどです。

 ただし、悟りの可能性を示しているだけで、決して容易なものではありません。

 ですから、念仏、禅・・等と、先徳さんたちは、よりよい方法を考えてくれた

わけです。

     

 では、真言宗はどのように説いているのでしょう。

 

 真言宗でももちろん「仏になろう」と説くのですが、その前提として「仏であ

る」ことに気づきなさい、と言うのです。

 

 人も仏さまも、「構成要素」は同じだよ。だから、その身体で「仏様のように」

ふるまい、その口で「仏様のように」語り、その心で「仏様のように」思いをめぐ

らせたならば、その瞬間、もう仏様だというのです。

 

 これを徹底する訓練が「三密行」という修業です。

 

 真言宗の寺院では、仏さまが近くに祀られていることが多いそうです。

 観光寺院での大きな仏様なんかは見上げないとダメなところもありますが、

普段、行者が修法するような道場の仏さまは近くにいらっしゃることが多いで

す。

 それは、仏さまと、自らも「仏として」対等に向かい合うためとも言われてい

ます。

 

 自分たちの行の中で、自分の中に限りない仏がいらっしゃる、そして、自分も

大いなる仏の一部であると観じる「入我我入観」というものがあります。

 これをするにあたっては仏さまを、手の届かない「憧れの存在」にとどめていて

はいけないのです。

 実際、自分の知っている方が修業されているときに、自分なんかが仏さまと入

我我入するなんて畏れ多くてできない、と悩んでいました。

 たしかに、仏さまと対等の立場に立とうなんて、身の程知らずにも思えます

が、そう思うならば必死で努力すればいいだけです。

 

 才能に甘えるのではなく、自らを律して、努力し続けている大谷選手だから

こそ「憧れるな」という言葉を使うことが許され、また周りの人の心を動かした

のでしょう。

 

 寺でもいいですし。仏壇でもいいです。仏さまとじっくりと対話してみてくだ

さい。

 まずは「憧れ」からはじめても構わないでしょう。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和5年5月号の内容を加筆修正したものです。