「大師教」から「真言宗」へ

  都会では、火葬場が巨大ですので、他の宗派のお坊さんとバッティングすることが一よくあります。衣や袈裟を見ればある程度、どこの宗派の方か分かりますが、お経を聞くとより分かりやすいです。

 浄土真宗なら「南無阿弥陀仏」(但し、天台宗などでも念仏をお唱えしますので、絶対ではないですけど)、日蓮宗ならば「南無妙法蓮華経」という絶対無二な念仏や題目もありますね。

 真言宗で、それらに相当するものと言えば「南無大師遍照金剛」という「御宝号」でしょう。

 

 不思議に思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 「南無阿弥陀仏」なら「阿弥陀如来」という仏様への帰依を表しています。「南無妙法蓮華経」なら「法華経」といお経、すなわちお釈迦さまの教えに対する帰依を示しています。

 一方で、「南無大師遍照」は真言宗の宗祖である弘法大師への帰依を表すものです。

 

 まっとうな宗教とカルト宗教の区別の基準として「宗祖信仰」を含める方もおられます。文字通り、宗祖個人を崇めるものです。

 そういう意味では、仏でもなく、仏教の開祖であるお釈迦さまでもなく、そのお釈迦さまの教えでもなく、宗祖である弘法大師を崇める真言宗を、仏教ではないとする「密教非仏(教)説」の指摘もむべなるかな、とも思えます。

 

 自分は、僧侶になってから「『大師教』になってはいけない」と言われたことが何回かあります。

 しかし、正確には「『大師教』にとどまっていてはいけない」というべきなのでしょう。

 

 真言宗の教えは難解です。日々、読誦している理趣経についても、内容が誤解を招きかねない危ういものです。

 そういう意味で、真言宗を学ぶ上で、弘法大師の教えを道標とすることが、道を踏み誤らない方法であるとも言われました。

 実際、日本の仏教の宗祖の中で、お大師様ほど沢山の著作を残されている方は例を見ません。

 親切にも、自分たちが、難解な真言密教を理解していくうえでのマニュアルをこれでもかいうほど残して下さったのです。ただ、浅学菲才の自分にはそれでもまだまだ難解なのが残念なのですが・・・。

 

 また、お大師様は教理を学ぶ上での親切にとどまりません。

 実際に生活に困窮している人に、どれだけありがたい教えを差し出しても意味がないことが分かっている方です。

 ですから、満濃池や益田池の建設であったり、庶民にも教育の機会を与える綜芸種智院の設置などを通じて、現実的な「済世利民」にも尽くされたわけです。

 

 だからこそ、弘法大師はいまも高野山の奥之院で禅定に入られていて、日々衆生を救っておられていると信じ続けられているのでしょう。

 そして、この科学万能のこの時代にあっても、実際にお大師様に救われたという奇跡が語られ続けられているわけでしょう。

 

 南無大師遍照金剛

 

 苦しい時は、どうぞ声に出してすがってください。

 「大師教」と馬鹿にされたって構わないです。

 

 その代わり、お大師様に救われたあとは、自分が誰かのお大師様になってください。

 

 お大師様の教えを体現する一人になること、そこからが本当の真言宗です。

 

 今年は、そのお大師様がお生まれになってから1250年を迎えます。

 高野山や生誕の地である善通寺さんをはじめ、多くの真言宗の本山で色々な記念法要が行われます。普段は見ることのできない仏様の御開帳のようなイベントもあります。

 

 せっかくの機会です。是非、足を運ばれて、お大師さんと一層お近づきになってくださればと思います。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和5年2月号の内容を修正したものです。