宗教と政治 宗教とカルト

 宗教と政治の関係について喧しくなっています。

 さらには、宗教とカルトの区別もせずに、鬼の首でも取ったかのように宗教を否定する短絡的な意見も見られます。

 

 まずは、宗教と政治の関係についてお話しします。

 たしかに、「よりよい社会」を作る為には、宗教の力だけでは限界もあるとして、政治の力を上手に利用するといのも方便としては有効なのかもしれません。

 

 悩んだ時には、原点に帰るということで、お釈迦様の立場はどうだったのかを見てみます。

 

 お釈迦様自身が、小国ながら釈迦族の王子様でした。しかし、その地位を投げ捨てて、仏道に進まれたのは皆さんもご存じの通りです。

 お釈迦さまの覚者としての素晴らしさが尊敬の源であったのは間違いないでしょうが、その生まれゆえに、王族などの身分の人から帰依を受けやすかったということはあると思います。

 実際に、ある国王からはある部族を攻めるべきかどうかといった政治的な相談を受けたりしていますが、やんわりとその部族の徳の高さを訴えることで制止するにとどめています。

 そもそも政治に口出しするのであれば、自分の母国である釈迦族の国の滅亡をどんなコネを使ってでも回避したはずですが、そうはされませんでした。

 

 では、宗祖弘法大師ではどうでしょうか。

 お大師様も、嵯峨天皇藤原北家といった方々と親しくされて、薬子の変の際に鎮護国家護摩を修したり、高野山などを下賜されたりといったように、政治的権力と上手に付き合ったことは否定できませんが、政策決定に口出しするような真似はされませんでした。

 

 政治は、ややもすれば「最大多数の最大幸福」こそが正義となりがちです。

一方で、宗教は絶対的平等こそが正義です。多数決で妥協点を探すものではありません。その点で両者に親和性は無いように思います。

 むしろ、宗教は政治と距離を置くことでその聖なる部分を守れるように思います。

 

 では、次にカルトと宗教の違いです。

 

 ヒントとして、仏教教団(サンガ)のルールである律をひいてみます。

 その中の一つに、出入りの自由があります。

 仏教の教団の中にも、少しずつ考えの相違があります。入ったは良いものの、どうもしっくりこない場合もあります。そのときには自由に抜けることができるのです。

 

 また、それと関連して、財産の自由処分があります。

 教団に入るにあたり、財産を教団に全て奉納しなければならないなんてことはありません。もちろん、それをするのは自由なのでしょうが、身内に分配したり、預けたうえで教団に入るということができます。

 財産をすべて取り上げられたのでは、実質的に脱退の自由が制限されますよね。

 

 どうですか。カルトの見分け方のヒントにならないでしょうか。

 

 本来、まっとうな仏教は自由に出入りできるものです。強制的に「料金」を徴収されるものでもありません。

 しかし、檀家制度こそが、その足かせになっているのではないでしょうか。

 もちろん、檀家を抜けることは可能なのですが、高額な離檀料による制約、寺院内の墓地を利用しているのであれば人質ならぬ「墓質」あるいは「骨質」による制約があり、簡単ではないでしょう。

 

 教団において、戒律を破った僧侶に対して厳しく処する理由の一つは「世間体」というものがあります。すごく俗な表現で不適当なのかもしれないですが、分かりやすいと思うので、そう表現します。

 仕事をせずに(労働すること自体が戒律違反です)、支援者(檀那)からの布施によってのみ生きている僧侶にとっては、「お布施を渡すに足る尊敬すべき」僧侶であることが必要なのです。そうでなければ、誰も支援してくれなくなります。

 そういう意味で、評判を落とす僧侶は駆逐しなければ、教団自体の存続に関わるのです。

 

 「檀家だから仕方ない」といって納めてもらう護持会費等によってのみ存立しているようでは本来の仏教の姿ではないでしょう。

 心から多くの方に応援していただけるような寺にできればと願っています。

 

※ 令和4年8月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。