伝聞ですので、正確ではない話です。
ある宗門大学での修士論文の発表会でのこと。ある社会人コースの院生の方のテーマが「現代ビジネスに活かす弘法大師の言葉」とかいったものだったそうです。
結果、講評を下さった教授方たちの反応はいまいちだったようです。
「それ、こじつけですよね。お大師様の言葉でなくても、神様の言葉だって成り立ちますよね。」「ビジネスでの成功は、密教として目指しているものではないですよ。」‥等と散々だったそうです。
ただ、実際には書店に、仏教や密教の名を冠しながらも、仏教書なのかビジネス書なのかわからないようなものが並んでいますし、宗教者なのかコンサルなのか分からないような「ギラギラした」僧侶がちやほやされているように思います。
たしかに、エネルギッシュで、近づくだけでパワーをもらえそうなお坊さんというのも需要があると思います。
しかし、本当に弱っている人の中には、そのパワーにあてられるというか、そもそも近づくことさえ苦しいような精神状態だったりする方も多いのではないでしょうか。
僧侶としてパイセンである兼好法師は『徒然草』の中でこう言っています。
友とするにわろき者、七つあり。
一つには、高くやんごとなき人。
二つには、若き人。
三つには、病なく身強き人。
四つには、酒を好む人。
五つには、猛く勇める兵(つわもの)。
六つには、虚言(そらごと)する人。
七つには、欲深き人。
1つ目から3つ目と5つ目の4つについては、理由として共通点があると思います。
生まれつき家柄がよくお金持ちである方は、貧乏でコネもなく地べたを這いつくばって必死に生きる人の気持ちに寄り添うことは難しいでしょう。
誰もが通る道ですが、若いうちは年を取った方の気持ちがなかなかわからないのではないでしょうか。早晩わかる時が来るのですけど。
身体が丈夫で、少々の不摂生をしてもびくともしない方には、病気の方の気持ちはわかりづらいでしょう。
身体ではないですが、精神的にタフな方も、心の弱い方の気持ちに寄り添うのは難しいでしょう。
高い社会的地位や名声、裕福さ、若さ、心身ともに元気であることのみに価値を認め、そうでないものに対しては頭ごなしに否定するというのは仏教的ではないでしょう。
一方、兼好法師がおすすめの友人はこんな方たちです。
よき友三つあり。 一つには、物くるる友。 二つには、医者(くすし)。 三つには、智慧ある友。
文字通りに読めば、えらく打算的に見えるかもしれません。
しかし、もう少し深く読む必要があるのではないでしょうか。
「物くるる友」とは損得勘定抜きで付きあってくれる友のことではないでしょうか。
「医師」とは、場合によっては苦い薬をもって病を治し、耳に痛いことを憚らずに言ってくれて、心身ともに健康であらしめてくれるような友ではないでしょうか。
そこに「智慧」が伴っているならば、本当に頼りになる友ですよね。
心地よいことをささやいて、お金儲けに血道をあげる僧侶たちを見て、兼好法師はどんな顔をされるでしょう。
よき僧には、迎合せず、本当に相手のことを考えたら嫌われ者になったって良いくらいの覚悟が必要なのでしょう。もちろん裏付けとしての智慧も。