信仰上の浮気 ダメ ゼッタイ

 この寺の住職になるにあたり、本山にて「法流稟承(ほうりゅうほんじょう)」「親授式」というものを受けました。

 その際に、座主様からこのような内容のお言葉をいただきました。

 「皆さん、色々なことを学んできたと思います。しかし、これからは高野山真言宗の寺の住職として、本宗のやり方に則って修法するように気を付けてください。」

 

 そんなこと、当たり前って思われたかもしれません。

 高野山真言宗のお寺だと思ってお参りしたら、「南無阿弥陀仏」だったり、団扇太鼓を打ち鳴らす音とともに「南無妙法蓮華経」と聞こえてきたら、びっくりしますよね。

 

 しかし、実際、僧侶個人レベルでは、他宗派で修業なり、勉強をしている方は少なくありません。

 自分の、高野山での師僧も、真言宗のことをよりよく理解するためには、他宗派のことを知り、外から見る必要があるという考えだったようで、若い頃には、臨済宗南禅寺で修業をされていたそうです。弟子の中には、師僧をリスペクトして、同様のことをされている方もいらっしゃるようです。

 

 自分も修行というほどではないですが、ゆはり鎌倉仏教の源流となった「綜合大学」である天台宗のことを学ぶことが大切だと思い、しばらくの間、天台宗のお寺さんに通って勉強させてもらっていました。

 

 先日、井戸封じの祈祷を依頼されました。自分の学んだ修法では、天台方のものと真言方の両方がありますが、先の座主猊下からのお言葉を思い出し、真言宗の看板を背負っている以上、真言宗のやり方で致しました。

 

 秋の時期になると、本山では、中院流の伝法灌頂が開かれます。

 阿闍梨になるための儀式です。

 真言宗には、高野山真言宗とか智山派とか豊山派といった「派」とは別に「流」というものがあります。本当は単純に「高野山真言宗=中院流」というわけではないのですが、高野山で集団で行われる伝法灌頂は中院流でおこなわれます。

 

 普通は、四度加行を終えると、直近で開かれる伝法灌頂を受けて阿闍梨となります。

 真別処や専修学院などの教育機関でも、春から加行をスタートして、秋には伝法灌頂を受けるようなカリキュラムになっています。

 

 山内の塔頭で役僧をしていたときのことです。

 そこでは、院内加行といって、大阿闍梨さまから個人的に指導していただく加行を行っていました。

 色々な加行者さんがいらっしゃいました。

 その中のお一人の話です。

 

 四十歳前後の方だったと思います。非常に熱心な方で、行に入る前に、寺でお手伝いを長くしてくれていたこともあり、お経の唱え方や立ち居振る舞いなどの作法も素晴らしいように思いました。

 自分が、そのような感想を先輩の僧侶に伝えたところ、その方の見立ては自分とは異なり、

 「あいつは、まだ真言宗の坊さんになっていない。」

と仰いました。自分は、何を以てそのように見ておられるのか分かりませんでした。

 

 その後、その方は、直近の伝法灌頂に入る許可を伝授阿闍梨様から得られなかったのです。それどころか、「権教師講習会」という、初心者向けの講習会に参加するように指示されたそうです。詳しくはまた別の機会に申し上げますが、「権教師」というのは、文字通り「教師未満」の資格で、わざわざ加行が終わり、これから阿闍梨、教師になろうという人がなる必要はないものです。

 

 なぜ、伝授阿闍梨さんがストップをかけたのか、理由は伺っていません。しかし、先輩の仰っていたことも踏まえて考えると「真言宗のお坊さん」になりきれていなかったということでしょうか。

 

 その方は、若い頃から真言僧を目指したわけではなく、日蓮系のお寺や、天台系のお寺に勤めていたこともあるそうです。実際に、信者さんの為に祈願をしたり、現場を数多く踏んでいたようで、お経が上手で、立ち居振る舞いが堂々としているのも当たり前だったのかもしれません。しかし、心に真言宗の僧侶としての「なにか」が存在していなかったということなのでしょう。

 

 他の宗派を学んだことで、自分の進むべき宗派をよりよく理解できるという利点があると思います。

 しかし、色々な宗派の、「おいしい」ところを表面的につなぎ合わせるというのは、意味がないように思います。金にものを言わせて、四番バッターばかりをそろえている野球チームが、それほど機能しないようなものです。

 

 また、別の行者さんの話です。

 その方は、研究者の方で、高野山大学の大学院で、瞑想と脳波の関係を研究されて修士号も取っている方でした。語学も堪能ですし、頭が良いだけでなく社交性もある素晴らしい方でした。

 しかし、やはり先輩の見立ては違いました。

 「あの人は、真言宗を信仰していない。あくまでも研究の対象としてしか見ていない。」とのことでした。

 はたして、その方も伝法灌頂を受けるまでに、色々なことが重なり数年を要してしまいました。

 

 在家の方に、菩提寺以外の宗派に関わるな、とか、関係ない宗派の寺にお参りするな、などと言うつもりはありません。

 

 四国遍路の先達をしているときに

 「うちの菩提寺さんには内緒でお参りに来てるんです。前に作った掛軸も、お寺さんが来るときには隠すんですよ。ものすごく怒られたんで。」

と、仰る方もおられました。

 たしかに、そのご住職の意見もごもっともだと思います。

 ただ、実際には四国遍路の札所には、真言宗以外のお寺さんもあるんですね。浄土真宗日蓮宗はないのですが、浄土宗や禅宗のお寺さんはあります。

 ですから、真言宗の信仰者でなくても、仏教の求道者として、大先輩である弘法大師の息吹を感じながら巡礼することに意味があるのだと思います。

 

 信仰は、人間関係と同じようなものかもしれません。

 色々な宗派のことを幅広く知るということは、色々な分野の友達と付き合うのと同じで、自分の視野を広げてくれることでしょう。

 

 そのうちに、本当に心の許せる親友ができるでしょう。

 

 僧侶や、それに近い篤信者となると、その宗派と結婚するレベルです。

 重婚などはもってのほかですし、いつまでも元カレや元カノを引きづっていてはいけないということなのでしょうね。

 先述の行者さんたちは、元カノを引きづっていたり、信仰(愛)のない仮面夫婦であることにダメだしされたんでしょうね。

 

 まずは、親の決めた「許嫁」である家の宗教を知ってほしいです。

 そのうえで、色々な「友達」とのお付き合いをしてほしいです。

 そして、本当に「運命の人」を見つけたと思ったなら、「許嫁」にこだわる必要はないでしょう。但し、そうなったらもう浮気はダメですよ。