そうだ、仏像に会いに行こう

 毎年、同じ話で申し訳ないです。

 今日3月21日は宗祖弘法大師が入定された日です。西暦で言うと835年のことです。

 「弘法大師が亡くなられたのはいつですか?」という問題が出されたら、よく勉強されている方なら「承和2年3月21日です!」と元号で即答されるかもしれません。

 しかし、これはいじわる問題です。

 日本史などの知識としては正解ですが、真言宗の信徒としては不正解です。

 なぜならば、お大師様は「入定」されているのであって、「入滅」つまり亡くなってはいないとされるからです。

 いやいや、そんな馬鹿馬鹿しいことはやめてくれ、という方もいらっしゃるかもしれません。また、歴史に詳しい方なら、お大師様を「荼毘」に付したという資料があることを指摘される方もいるでしょう。

 しかし、自分たち真言宗の信徒は、そんなことを口にはしません。

 そして、高野山の奥之院では、毎日2回のお食事がお大師様に運ばれているわけです。

 

 よく、「神も仏もあるものか」と口にされる方がいらっしゃいます。

 なるほど、その人にとっては神も仏も存在しないのかも知れません。

 

 そういう意味では、仏や神の存在を成り立たせているのは、信仰そのものなのかと思います。

 

 密教僧は、行法の中で、仏様をお迎えする作法をします。

 お迎えする場所を清めて、調度品を調えて、お迎えの車を送って、到着されたら足を洗って、歓待の音楽を演奏して様々な供物を・・・というような具合です。

 

 これは、そこに仏様がいらっしゃると信じているからこその行法です。

 信仰が無ければ、ただの「おままごと」です。というか、ただの痛い人です。

 

 皆さんだってそうですよね。

 仏壇やや墓の前で、お花を供えて、お茶をあげて、ときには好物を上げたりして。

 そこに大事な人が来てくれていると思うから手を合わせているんですよね。

 そして、信仰している者の前には必ず来ておられるわけです。

 証明は出来ませんが、理屈ではないんです。体験で確信できるものです。

 

 また、行法の話に戻りますが、先ほど挙げたような作法を一つ一つ「観想」しなければなりません。

 目の前に、仏様がいらして、実際に供養するという観想をしなければ、いくら、所作がスムーズで手慣れたものであってもただの「おままごと」になってしまうわけです。

 

 そして、ある大阿さんに言われたのは「観想」は「イメージ」ではない、ということでした。

 イメージは、イメージすることを終えた瞬間、そこから仏様の姿が消えてしまう。

 それに対して、「観想」は実際にそこにいらっしゃる仏様を感じるもので、観想をやめたからといって、仏様が存在しなくなるわけではないことが違いである。

 

 なかなか、難しいです。

 行法の次第には、仏様の姿や、住まれている世界が詳細に描かれているのですが、完璧に観想するのは一苦労です。

 

 その際に、力を貸してくださるのが仏像です。

 仏像も、自由に作っていいわけではなく、ちゃんと「儀軌」にそって表現されています。

 持ち物や姿には一定のルールがあります。こんな姿の方が格好いいとか、萌える、とかいって作ってもダメなんです。

 

 今回、兄弟弟子でもあるU師が、薬師堂の本尊として、新たなお薬師様を奉納してくださり、たった今、開眼供養をさせていただきました。

 左手の薬壷には、私たち衆生の心身全てに効果のある妙薬があるとされています。

 そして、右手を前に出す姿は「施無畏印」といって、私たちの不安を取り除くものです。少し薬指が前に出ているのもお薬師様の姿の特徴です。

 

 たしかに仏像が無くたって、そこに仏様はいらっしゃいます。

 そんなものに頼らないと駄目というのは、レベルが低い、と言って、偶像崇拝を否定する方もいるでしょう。

 しかし、私たちが、仏様であったり、仏様の教えを忘れないようにするためには仏像であったり、仏画というものは必要な方便だと思います。

 

 また、仏像というものは不思議なものです。

 あるとき、巡礼ツアーのお客様に、とある観音様をご案内したところ、ある方は「美人観音様ですね。」という一方で、別の方は「男前ですね。」と言うんです。

 同じ仏像でも、見え方は人それぞれの様です。

  

 また、自分自身、毎日拝んでいる仏様が、日々異なる表情に見えます。

 寺務を怠けた日は、後ろめたさが深層心理にある影響で「厳しいお顔」に見えているだけなのかも知れませんが。

 

 今日お迎えしたお薬師様は皆様にどのように映っていることでしょうか。

 

 今後、毎月の薬師護摩の日には、薬師堂を開いて、お顔をご覧いただけるようにいたします。

 今月は、どんなお顔で迎えてくれるだろうか、と楽しみにして、お参りしてくださると嬉しいです。

 

※ 令和4年御影供での法話に加筆修正したものです。