みんなお大師様の名代 ~ 転衣式に参列して

 昨日(令和5年3月7日)、高野山での転衣式に参列してきました。

 

 転衣式とは、高野山にて弘法大師の名代をつとめる法印職に就任したことを披露する儀式です。このたび、蓮華定院添田大僧正がその職に就くこととなり、この晴れの式に参列する機会を得ました。

 

 御存じの通り、弘法大師は今なお生きておられるというのが、真言宗徒の「公式見解」です。いまなお奥の院の御廟で瞑想されていると信じられており、一日二度のお食事も運ばれています。

 

 これを「入定信仰」と言います。

 832年、高野山で万灯万華会を営んだ際、「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば わが願いも尽きなん」と誓いを述べられます。

 要は、すべての衆生が救われないうちは、自分一人で悟りの世界に旅立つことはない。この世にとどまってすべての人を救い続けよう、という誓いです。

 そして、835年にその言葉の通り、入定されます。

 

 しかし、この「入定信仰」が広まるのは、もう少し時代が下ってからのことです。

 

 921年醍醐天皇の御代、帝の枕元にぼろぼろの衣をまとったお大師様が現れて、このような歌を詠まれます。

 「高野山(たかのやま) 結ぶ庵に 袖朽ちて 苔の下にぞ 有明の月」

 

 お大師様が未だに衣の袖が朽ちるまで人々を救うために奔走されていること、高野山の地から有明の月のように衆生を照らし続けてくださっていることに感激します。

 

 そこで、「弘法大師」の諡を下されるとともに、東寺長者であった観賢僧正に命じて檜皮色の新しい御衣を届けさせます。

 

 早速、観賢さんは弟子の淳祐さんを連れて、高野山奥の院の御廟に向かいます。

 扉を開けると、霧が立ち込めて何も見えません。自分の信仰のなさのせいかと、申し訳ない気持ちで一心に手を合わせると、霧は晴れ、お大師様の姿があらわになります。

 90年ほど前に、入定されたときのままの姿勢でしたが、衣はボロボロで、ひげも生えておられました。

 そこで、ひげを剃る等、身だしなみを整え、帝から下された新しい衣に着替えていただいたといいます。

 

 ちなみに弟子の淳祐さんは修業が足りなかったのか、姿を見ることができずに、悲しまれます。そこで観賢さんが淳祐さんの手を取って、お大師様の膝のあたりを触らせてあげたそうです。以来、その手は良い香りがするようになったそうで、淳祐さんの書いた手紙などにもその香りが移ったといわれます。

 

 今では帝から下賜されることはありませんが、山内の寶亀院さんの井戸水を使って染められた新しい衣が、毎年3月21日の御影供のときにお大師様に献納されます。「御衣替え」と言われ、その衣を次の年の法印さんがお大師様の名代の証として受けとるわけです。

 

 お大師様は、弥勒菩薩さんのいる兜率天でご自身も修業される一方、日夜忙しく衆生を救い続けてくださっています。

 ですから、高野山での法要などは、法印さんが代わりに務めるわけで、その一年間は山から下りることも許されません。

 

 しかし、お大師様の名代を務めるのは法印さん一人であってはなりません。

 私たち、真言宗の信徒一人一人がお大師様の名代でなければなりません。

 

 といっても、衣食足りて礼節を足る、ではないですが、自分に余裕がないのに、人に手を差し伸べることは常人には難しいことです。

 

 ですから、お大師様は私たちの「現世利益」の願いも聞き届けてくださいます。

 

 今日の護摩で、心身ともに元気になっていただき、バリバリとお大師様の名代を務めていただければ幸いです。

 

 ※ 令和5年3月8日 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。