最近では、宗教と科学が水と油の関係のようなものではなくなってきたように思います。自分の知っている方の中にも、科学者から僧侶になった方がおられますし、生死にかかわる職業だからなおさらなのでしょうか、医師でありながら僧侶という方も珍しくなくなってきているように思います。
ある精神医学の先生が、宗門主催の講演会でこうおっしゃったそうです。
「密教を信じたらどんなメリットがあるのですか?」
「自信をもって『健康になる』と言って良いと思います。」
どうしても自分は、うちの宗教を信じたら健康になるとか、幸せになると言い切ることを憚ってしまいます。心が豊かになりますとは言えますが、あまりに現世利益ばかりを宣伝すると、インチキ臭くなりそうで嫌なんですね。
そもそも仏教は、死を避ける、病を避ける、貧困を避ける・・・といったことを究極の目標としているわけではありません。
むしろ避けることのできない病や死や老いといった苦を受け入れる、執着しないことで、乗り越えるのが本筋なのでしょう。
実際、そのような祈願を否定する宗派も存在しています。
しかし、できることなら元気で長生きを願うのは人情です。それを、レベルが低いことと切り捨てるのはどうなんでしょうか。
そもそも私たちは何のためにこの世に生まれてきたのか。
答え合わせをする方法は無いかもしれませんが、あえて「修業のため」と言っておきます。
「人生は遍路なり」などと「ベたな」ことを言うつもりはありませんが、自分の中にある仏の種をいかに大きく育てるかの自由研究みたいなものではないでしょうか。
人身受け難し いますでに受く
仏法聞き難し いますでに聞く
このお釈迦様の言葉の通り、なかなか得られないチャンスをもらって生まれてきたのがこの世界なのです。
ですから、この時間を無駄にしてはもったいないです。
健康で長生きをして少しでも修業ができるように願うことは、強欲なことではありません。むしろ模範的だと思います。
不老不死を願っているわけではありませんから・・・。
自分たちは、読経や行法の中で「横死」から逃れるように、と祈願することがあります。これは天命を全うしないで亡くなることです。
せっかく神仏からいただいた時間を使い切ることができるように、という「謙虚な」願いです。
また、修業や勉強をするにも、ある程度の「モノ」は必要です。
勉強に差支えがないくらいの経済的余裕を願うのも許されるのではないでしょうか。
本日の護摩で、元気になっていただき、まだまだこの面倒くさい娑婆の世界で、思う存分修業していただければ幸いです。
※ 令和4年12月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。