そこにあるものを認識するのではなく ~「一水四見のたとえ」

 夏が終わり、僧侶にとって最大の「繁忙期」が終わりました。

 そして今は、様々な伝授会や講習会などが始まったり、再開したりする時期です。

 先日受講した密教瞑想法の授業で、面白い話がありましたので紹介します。

 

 密教の瞑想をするには、当時現代科学とは異なる、当時の仏教の思考を理解しなければならないというものです。

 そのひとつの例が私たちが「ものを見る」ということです。

 

 現代科学では、対象が存在しており、それを目という視覚器官によって捉え、それが信号として脳に送られて認識されるこが「ものを見る」ということになるのでしょう。

 

 一方で、仏教的には、認識されることではじめてものが存在する、というのです。

 

 ちょっと何を言っているのか分からないんですが、と仰るかもしれません。

 そこに「あるもの」が存在しているのだから、誰が見ても普遍的に「あるもの」が認識されるはずと思いますよね。

 でも、そうではないというのです。

 

 それを分かりやすく説いたのが「一水四見のたとえ」というものです。

 

 私たち人間は水を目にしたら当然「水」に見えます。

 しかし、魚にとっては「すみか」として映ります。

 餓鬼たちは「血膿」に見えます。

 施餓鬼の際にお話ししたように、餓鬼は口にしたものがたちまちに火に変わります。ですから、のどの渇きを癒すはずの水ですら、苦しみをもたらすものに映るというのです。

 一方で、天人たちには「瑠璃」に見えます。

 空を自由に飛び回る天人にとっては、キラキラと輝く水面が、美しい「瑠璃」に映るというのです。

 同じ水であっても、認識するものによっては全く異なるものとして存在するというたとえです。

 少し古めかしい表現があるのでピンとこないかもしれませんので、別のたとえも紹介します。

 

 「手を打てば 鳥は飛び立ち 鯉は寄る 女中茶をもつ 猿沢の池」

 同じ手を叩く音を聞いたとしても、鳥は驚いて逃げ出しますし、鯉は餌をもらえるかと思い、寄ってきます。そして女中さんはお客さんにお茶を持ってきてくれるというように、手を叩く「パン」という同じ音を聞いても聞こえ方は、聞き手次第というたとえです。

 

 よく、密教はもはや仏教ではないという方がおられます。

 皆さんの頭上にかかってる肖像画は「真言八祖像」というものです。そこにもお釈迦さまが描かれてないくらいです。

 でも、密教もれっきとした仏教です。

 ただ、「仏教」の定義づけが少し違っているだけです。

 

 以前にもお話ししたかもしれませんが、大切なことなのでまたお話しさせていただきます。

 最初の頃の「仏教」とは「仏であるお釈迦さまの教え」でした。

 次に「仏となるための教え」という定義が出てきます。

 そして、密教では「仏であることに気づく教え」となります。

 

 私たちの内部に、ちゃんと仏様がいるのです。

 「如実知自心」

 だから、自分の心の理解こそが、覚りへの近道なのです。

 

 そして自分の心をちゃんと理解してコントロールすることが大切だというわけです。

 心を「仏仕様」にできれば、この面倒な娑婆の世界も、一瞬にして浄土として映ることでしょう。ものすごい高難易度ですが………。

 

 でも、密教は、僧侶以外のものには何にも教えてくれないので何だかな・・・と思われるかもしれません。

 たしかに伝法灌頂を已えた僧侶でないとできない修法というものは沢山あります。

 しかし、在家の信徒さんでも密教の神髄を感じてもらえる方法も沢山あります。

 

 今回のように、護摩に参加していただくのもそうです。

 一心に炎を見つめ、真言や陀羅尼を唱えていただいているとき、日常の「人間としての価値観」というものがどこかへ飛んで行ったのを実感したのではないでしょうか。「仏仕様」あるいは「天人仕様」になったのではないですか。

 

 そして、寺に来なくても、いつでもどこでもできる方法が瞑想です。

 

 次回の護摩以降は、少しずつ密教瞑想についてお話、実践ができればと思っています。

 

※ 令和4年9月 薬師護摩での法話に加筆修正したものです。