「僧侶的生き方」とは ~「密厳院発露懺悔文」

 先日、とある方からメールにて「僧侶的生き方」とは何か、という内容の質問をされました。

 

 浅学菲才の自分なりに、一生懸命考えて回答したのですが、その後はなしのつぶて。

 あまりのレベルの低い内容に失望したのか、求めていたものと異なっていたのかわかりませんが・・・。

 ただ、自分としては、僧侶のあるべき姿を考える機会になったことに感謝はしています。

 

 自分は、「僧侶的生き方」の中心に「戒」があると考えています。

 「戒律」の「戒」です。

 戒律と戒は同義ではありません。戒律は「戒」と「律」に分かれます。

 「律」は仏教教団内部での「他律的」なルールであるのに対して、「戒」は「自主的」に仏様との間で誓う約束といえるでしょう。

 

  在俗共通の戒といえば、何度もお話ししてきた十善戒があります。

 自分たち僧侶は、その他に僧侶用の戒(具足戒とか)を受けていますが、ここでは毎朝唱えている「密厳院発露懺悔文(みつごんいんほっろさんげのもん)」を紹介します。

 

 これを作られたのは、平安時代末期の偉大な真言僧、覚鑁上人です。

 色々なバージョンがありますが、ここでは自坊で唱えているものを挙げておきます。

 

我等懺悔す 無始よりこのかた妄想に纏はれて衆罪を造る

 

身口意業 常に顛倒して 誤って無量不善の業を犯す

 

珍財を慳悋して施を行ぜず 

意に任せて放逸にして戒を持せず

しばしば忿恚を起して忍辱ならず 

多く懈怠を生じて精進ならず

心意散乱して坐禅せず 

実相に違背して慧を修せず

恒に是の如くの六度の行を退して 還って流転三途の業を作る

 

 ※ 覚りを得る上で、むかしから必要とされてきた六波羅蜜行に関する話です。

   布施、持戒、精進、禅定、忍辱、般若波羅蜜のことです。

   そんな基本的なことですが、なかなか守るのは難しいものです。

 

名を比丘に仮って伽藍を穢し 形を沙門に比して信施を受く

受くる所の戒品は忘れて持せず 學すべき律義は廃して好むこと無し

諸佛の厭悪したもう所を慚じず 菩薩の苦悩する所を畏れず

遊戯笑語して徒らに年を送り 諂誑詐欺して空しく日を過ぐ

善友に随がはずして癡人に親しみ 善根を勤めずして悪行を営む

利養を得んと欲して自徳を讃じ 勝徳の者を見ては嫉妬を懐く 

無徳の者を見ては驕慢を生じ 

富饒の所を聞いては希望を起し 貧乏の類を聞いては常に厭離す

 

 ※ 僧侶たるもの、世間の価値観で生きてはいけないということです。

   世間では、名声や富をもつものがもてはやされがちですが、

           僧侶はそれではいけないのです。

           他のお寺は儲かっているなぁなど、と羨ましがってはいけません。

   そんなことよりも、善根を積み、戒律をたもつ生き方をしていることこそ

       誇りです。

           でも、それを鼻にかけるのもNGです。

   一人前に、頭を丸め、立派な袈裟をつけていても、布施を受けるに値する

       存在であるか自問すると、恥ずかしくなります。

 

故に殺し誤って殺す有情の命 顕はに取り密かに盗る他人の財

触れても触れずしても非梵行を犯す 口四意三互に相続し

  

 ※ 不殺生、不偸盗、不邪淫しか挙げられていませんが、十善戒の話です。

  在俗共通の戒なのですが、これの一つでも守るのは難しいです。

 

佛を観念する時は攀縁を発し 経を読誦する時は文句を錯る

若し善根を作せば有相に住し 還って輪廻生死の因と成る

 

 ※ 坊さんなら、さぞかし毎日集中して上手なお経をあげているかと思うで

       しょうが、そうではなかったりします。そもそも、日々の勤行をしていな

       い方もいるようですが・・・。

          自分にしても、勤行中に車の音が聞こえると、お客さんが来たかな、な

  んて気になってしまいます。

 

 

行住坐臥知ると知らざると犯する所の是の如くの無量の罪 

三宝に對して皆発露し奉る

慈悲哀愍して消除せしめ賜え

 

 ※ 自分は大丈夫という素晴らしいお坊さんもおられるでしょうが、普通は、

  知らず知らずに生き物のいのちを奪ったり、人に迷惑をかけたり、傷つけ

       たりしているはずです。

   そんな無意識のうちに犯した罪を「故意犯」ではないから、ととぼけて

  いてはいけません。 

 

 

乃至法界の諸の衆生 三業所作の此の如くの罪

我皆 相代って尽く懺悔し奉る 

更に亦 その報いを受けしめざれ

 

 ※ そして覚鑁さんのすごいのは、人の犯した罪をも一手に引き受けて懺悔

       されているのです。

           自分の犯した罪だけでも懺悔しきれない自分なんかには、到底及ばない

       境地です。

 

 高野山の改革に着手されたものの、抵抗勢力のせいで山を下りられ、新義真言宗の祖となられた覚鑁さんですが、私たち高野山の僧侶も日々これを唱えています。

 

 高野山で、覚鑁さんをお祀りする密厳堂のある場所のあたりは覚鑁坂と呼ばれています。奥之院に向かう途中、中の橋を越えた辺り(隣は松下電器の慰霊碑)です。

 

 有名な大名家の墓と異なり、素通りされる方がほとんどですが、是非とも立ち寄っていただきたいところです。

 

 話がそれてしまいました。

 

 「僧侶的生き方」とは、戒を受けること。戒を常に心にとめること。戒を守る努力をすること。戒を破ったことを認識し、日々反省する生き方ではないでしょうか。

 もちろん、戒を守る生き方がベストでしょうが、凡夫にはほぼ不可能だと思います。

 

 戒を受けることで「戒体」というものができます。

 それは戒を守るための修正機能をもつものです。

 

 「無戒の僧よりも破戒の僧」

 決して、開き直っているわけではありませんが、戒を受け、理想の人間像を意識して、追い求めることが「僧侶的生き方」の最低条件だと思います。