不邪淫

 十善戒の話の続きです。

 今日は不邪淫についてです。

 別に、例の記者会見を受けて、タイムリーな話をしようというわけではありません。前回までにお話しした不殺生、不偸盗とあわせて「身」すなわち身体、行動に関する戒律です。

   

 とりあえず意味は、正しい愛情生活を送ることと定義しておきます。

 一般的に人間の三大欲求として、食欲、睡眠欲、性欲が挙げられます。他にも、権力欲や名誉欲なんていうものもありますが、三大欲求は生きていく、あるいは人類が種として生き残っていくうえで必要なものだという点で特別扱いするべき欲求でしょう。

 

 それでは、三大欲求に関するものの中で性欲に関わる不邪淫戒だけが定められているのはなぜでしょうか。七つの大罪でいうと睡眠に身を任せるのは怠惰の罪、食欲に身を任せるのは貪食ということで色欲と同列に挙げられていますが。

 

 おそらくですが、人を傷つけるかどうかの違いなのだと思います。

 睡眠欲に負けて、遅刻しても、多少人に迷惑をかけることがあるかもしれませんが、専ら不利益を被るのは本人です。食欲もそうです。食べ過ぎて、健康を害する羽目になるのは本人です。

 しかし、性欲の場合はそうはいきません。

 たとえば、不倫なんていうものは、精神的に一番信頼している人を裏切り、傷つけるわけです。

 「不倫は文化だ」とのたまった方もおられましたが、旧刑法では姦通罪もありましたし、江戸時代の公事方御定書にも規定されていました。いまは刑法で罰せられることはありませんが(民事上は別)、社会的に大変な目に遭うことがあるのは、何も芸能人だけではないでしょう。

 それでも、やめられない。中には甲子園の常連校みたいに「〇年ぶり〇回目」みたいな人も出てくるわけです。

 だからこそ、わざわざ「戒」として挙げているというのもあると思います。

 

 本当の不邪淫戒の意味としては、一番近くで信頼している人を裏切らない、誠を尽くすことと言った方が正しいのかも知れません。

 

 話がそれるかもしれませんが、僧侶の場合は、少し意味が異なってくるのかと思います。

 自分は、現場にいなかったため、正確に再現しているかどうかは分かりませんが、大体こんな話を耳にしました。

 

 ある寺の二人のお弟子さん(得度したばかりの方たちのようです)の話です。

 一人の方は、仕事を辞めて僧侶になったようです。ただ、進路などのことで師僧に不満があるらしく、高野山大学に入学したら、色々と人脈が得られるだろうから、そこで新たに師僧を得て先に進みたいと言ったそうです。

 

 それに対して、もう一人の方は反対してこう言ったそうです。「今は退職金があるかもしれない。でも、大学に四年間も通ったら、すぐに無くなるわよ。私だったら、そのお金は子供や孫の為に使うわよ。もう少しちゃんと考えなさい。」

 

 もう、訳が分からないです。

 

 まず最初の方。

 師僧と弟子は親子関係です。親は選べませんが、師僧は選べます(弟子も選べますが)。住職になれば必要がなくなりますが、それまではあらゆる場面で師僧のハンコが必要です(中には伝授をうけるのにも必要なときがあります)。ハンコ不要の流れは、ここでは当てはまらないです。だからこそ、尊敬でき、価値観が共有できる師僧をじっくりと探すことが必要だと思います。

 とりあえず、簡単に得度できそうだからという理由で、師僧を選び、思うようにならないから新しい師僧を探すというのは舐めた話です。

 

 次に後者の方。

 反対する理由が頓珍漢すぎます。

 お金に糸目をつけずに、僧侶としての勉強をするということは素晴らしいことです。自分は貧乏ですが、ためになると思う伝授があれば何とかして受けています。

 中には、役僧なんか葬儀や法事以外の知識なんか必要ないのに、と、役僧時代に伝授を受けている自分のことを冷ややかに見ていた方もいたと思います。

 でも違います。直接の伝授内容自体はすぐに使う場面が無いとしても、すごい大阿たちのお話は、雑談や昔話の中にも、目から鱗が落ちるようなヒントがたくさんあります。

 僧侶として勉強するよりも、家族にお金を使いなさいというのはおよそ僧侶の言葉ではないのではないでしょうか。

 そういう意味で、僧侶の不邪淫は、家族を持つと、そこに執着がでて、僧侶の本分が果たせなくなってしまうから注意しなさいということかもしれません。

 お釈迦さまも、お子様が産まれたときに、出家する「妨げ」になるという意味の「ラーフラ」という名前をつけたといわれていますし。

 

 僧侶の持ち物は限られています。昔は三衣一鉢だったのが、のちに少しずつ増えて十種になります。その中に「寺」は含まれていません。僧侶は家業ではありませんし、寺は僧侶のものではありません。仏様の住まいであり、仏様と仏法を求める方たちのものです。

 皆さん、月に一度の薬師護摩に熱心にお参りしてくださり、ありがたいですが、それ以外の日にも、ふらっと立ち寄って、拝んで帰ることのできるような開かれたお寺にしていきたいと思います。

 来年もよろしくお願いいたします。

 

※ 令和2年12月8日 薬師護摩法話に加筆修正したものです。