坊さん いろいろ

 少し前の話ですが、ある大きなお寺が葬儀をする資格のない見習い僧侶を出仕させたとして問題となりました。

 檀家さんの葬儀で、作法がいつもと違うことに気づいた方が、問い詰めたところ本人が認めたそうです。

 よく気付いたものだと思いました。というのも、以前にも少し触れたと思います(「高野山真言宗葬儀式次第」)が、高野山真言宗の葬儀のやり方に決まった形はありません。

 ですから、問題なのは作法がいつもと違っていたことではなく、あくまでも無資格であった点なのです。

 そこで、葬儀の資格って何なのかをお話しするにあたり、どうやってお坊さんになっていくのかをごく簡単にご説明します。

 

① 得度

      まずは師僧となってくれる方を見つけます。

  お寺の子供ならば、親がなってくれる流れでしょうが、在家の者は自分で探さなくてはなりません。

  そして師僧の下で得度。剃髪をし、最も基本となる戒を授かり、法名と袈裟を授かり、僧侶としての第一歩を踏み出します。

  この証明書のようなものとして「度諜(どちょう)」が発行され、僧侶としての戸籍である「僧籍簿」に登録されます。  

 

② 受戒

   僧侶として守るべき戒を授かります。

   戒にも、種類があります。在家の方が守るべき戒(これは高野山の大師教会でも予約なしで受けることが出来ます)よりも、質量ともに増量です。

   高野山真言宗の場合、過去現在未来の仏さまたちに五体投地して懺悔したり、もちろん様々な戒を守るることを誓ったりと、三日間にわたり行われてます。

 

③ 四度加行

   僧侶たるもの一生修行なんでしょうが、真っ先に通過しなくてはならない基本的な修行がこれです。

   名前の通り、四つのパートから成り立っています。

   特定の仏様を丁重にお招きして供養するという基本的な作法にはじまって、最後に護摩行でフィナーレです。

   高野山真言宗の場合、道場によって前後しますが、前行(イントロとして護身法や理趣経を扱うための行)もあわせて100日くらいです。    

 

④ 伝法灌頂

   加行を終えると、阿闍梨となるための伝法灌頂を受けます。

   大日如来、金剛薩埵・・・から綿々と連なる法流を授かります。

   これが終わると「已灌頂者」として、色々な伝授を受けることが出来ます。

   あくまでも、密教行者としてさらに進んだことを学ぶ資格を得たに過ぎないと言っていいかもしれません。

 

⑤ 教師検定・教師資格取得

   専修学院や真別所といった集団加行道場を出た人ならば、自動的に「教師」になります。そうでない人は別途試験を受けて「教師」資格をとらなくてはなりません。

   「教師」とは僧正や僧都、律師といった僧階に任じられることでもありますが、それ以上に重要なのは、教師でないと住職になれないということでしょうか。

   ちなみに、高野山内の住職になるためには、これだけでは足りません。 

 

 では、どの段階ならば、葬儀をしても良いのでしょうか。

 少なくとも、④を終えて、引導作法という葬儀の伝授を受けていることが必要だと思います。

 

 中には、俗名の葬儀の場合は、戒を授けて、ちゃんとした僧侶として送るわけではないのだから、伝法灌頂を終わっていない僧侶がやっても構わないという方もいるでしょう。

 

 逆に、厳しい方では⑤の段階に加えて、住職であることを求める方もいるようです。葬儀の導師が「弟子」にして、引導を渡す以上、弟子を持つことが許される「住職」であることが必要だという考えなのかもしれません。 

 

 冒頭に述べたような騒ぎがあってから、僧侶派遣会社でも教師資格の証明書を求めるところもふえてきたようです。

 そんなきっちりした会社の一つに、よく出入りしていたお寺さんがあります。

 そこは、真言宗なんですが、特定の本山に属さない「単立」寺院です。

 単立寺院でも色々あるようで、大きな寺院で、さきに挙げたような僧侶育成システムを自前で持っているところもあります。そうでない寺院ならば、どこかの宗派のシステムを利用するということもあります。

 

 最近、分かったのですが、そこの寺の住職も副住職も、加行もなにもしていなかったみたいなんです………。

 極端な場合、単立寺院の場合、「住職です」と名乗ってしまえば住職になれてしまうんですね。

 でも、立派な伽藍のあるお寺だということで、結構お仕事があるんですね。

 ちゃんと、加行も終わり、志もあるのに「マンション坊主」などと侮蔑的に言われている方たちが、なかなか法務が無くて困窮して、泣く泣く僧侶以外の仕事で糊口をしのいでいたりするのが、何だか割り切れない気持ちです。

 

 もっとも、自分だって、形式的には葬儀の資格はあっても僧侶としてはまだまだなわけです。

 葬儀に赴いた際に、「ハズレ」の坊さんではなく「アタリ」の坊さんと思われるように、精進しなくてはならないと思います。