NO 懺悔(さんげ) NO 仏教

 先日、お寺にいらした方が、普段家で拝んでいる勤行の次第を見せて、「これでいいですか?」と尋ねられました。 

 色々な経を組み合わせてあり、熱心な方だと思いましたが、気になったことがありましたのでこう申し上げました。

 「懺悔文を唱えてから色々な経をあげた方がよいのではないですか。」

 

 拙寺での朝勤でも、斎場では「礼文」を真っ先に唱えますが、その中でまずは懺悔をし、さらに護摩堂でも「密厳院発露懺悔文」という僧侶向けの懺悔をしてから、理趣経などの読経に入ります。

 

 勤行次第(お経や真言を唱える順番)に、決まりはないのですが、ある程度のフォーマットはあります。例えるなら、仏様へ手紙を書くようなものです。

 今は、メールでちょこっと用件だけを伝えることが多くなりましたが、手紙では、「拝啓」などの頭語、時候の挨拶を述べてから本文を書き、最後に結びの挨拶と「敬具」などの結語で締めます。

 簡単なお経や真言だけを唱えるのならば、「一筆箋」のようなものですから、それだけでもよいでしょうが、本文にあたるお経だけが盛りだくさんで、懺悔もしないというのは、時候の挨拶で相手を気遣うこともせずに、自分の用件だけをベラベラと述べるようなもので、みっともない様に思います。

 以前にも書いたと思いますが、懺悔文、開経偈ではじめて、回向文で締めるというのが、勤行の基本的なフォーマットです。

 

 懺悔の対象は、数々の破戒です。

 仏教徒であれば、在俗を問わずに守るべき戒として十善戒があります。詳しくは別のところで書いていますので、ここではごく簡単に挙げておきます。

   不殺生(ふせっしょう) むやみにに生き物を殺さない。

   不偸盗(ふちゅうとう) 他人のものを自分のものとしない。

   不邪淫(ふじゃいん) 道徳に外れた異性関係を持たない。

   不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。

   不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。

   不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。

   不両舌(ふりょうぜつ) 和を乱すようなことを言わない。 

   不慳貪(ふけんどん) 激しい欲をいだかない。

   不瞋恚(ふしんに) 激しい怒りをいだかない。

   不邪見(ふじゃけん) よこしまな見解を持たない。

 

 僧侶なら、受戒という儀式があって、高野山の場合、三日間にわたって多くの戒を授かります。

 ある高名な僧侶の方は、こんなに沢山の、しかもどうせ守ることのできない戒を授けても、戒を破る罪を増やすだけだ、と仰って否定的な見解をのべています。

 たしかに、一番基本的な十善戒でさえ、守ることは困難です。

 しかし、だからといって、戒を守ろうと誓いを立てることは無駄ではないでしょう。少なくとも、人として最高の美しい姿を意識するということは大切です。

 専門的な言葉では戒を授かると「戒體(かいたい)」というものが内心に作られて、防非止悪の作用があるとされているのも同じ意味でしょう。

 

 しかし、それでも戒を破ってしまい、様々な罪を犯すのが私たちです。ですから、そのたびに懺悔をして、再度、戒を守る誓いを立てるのです。

 

 最近、過去のいじめでオリンピックの大役を下りる羽目になった人がいましたね。

 あのときに、「マグタラのマリア」の例を出して、擁護している人もいました。

 姦通罪を犯して、リンチさながらの石打ち刑に遭おうとしているマグタラのマリアとその周囲の人に対して、イエス様が「罪のない人から石を投げなさい」と言ったところ、そこには誰も残らなかったという聖書のお話です。

 本人が罪を犯したことのない人でもないのに、自分のことを棚に上げて人の非を責め立てるのはおかしいという論理ですね。

 たしかに、生まれてこのかた、罪を犯したことが一度も無いなんていう清廉潔白な人なんてほとんどいないでしょう。

 しかし、多くの人が今回の件で嫌悪したのは、罪を犯したこと(いじめの内容としてもあり得ないレベルでしたけど)よりも、それに対する懺悔や反省がなく、「武勇伝」のように嬉々として語っていた点だったように思います。

 

 中には、懺悔をしたって、また罪を犯すんでしょ。所詮人間なんてそんなもんだよ。だから無駄なことはしない、と言う人も居るかもしれません。

 でも、それって、どうせすぐに汚れるのだから、お風呂にも入らないし手も洗わないって言っているのと同じような幼稚な理屈ではないでしょうか。

 私たちは風呂上がりのような罪のない清らかな状態が心地よいことを知っています。だから、罪を犯したときに、もやもやした気持ちであったり、自己嫌悪に陥ったりするわけです。

 汚れに慣れてしまうことは恐ろしいことです。日々、犯罪行為に慣れてしまうと規範意識がどんどん希薄になるようなり、罪の意識すら無くなっていくようなものです。

 

 ですから、定期的に懺悔をして本来の綺麗な姿にリセットする必要があります。

 とはいえ、「日に三省す」というのはなかなか難しいでしょう。

 そこで、仏壇に手を合わせる機会ごとに、仏様の前で「シャワー浴びる」くらいが良いのではないでしょうか。

 

最後に「懺悔文」を記しておきます。

   我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)

   皆由無始貪瞋痴(かいゆむしとんじんち)

   従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)

   一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

お経とともにお唱え頂ければと存じます。

 

※ 令和三年夏(8月) 寺報の内容を加筆修正したものです。