ある宗門大学で学んでいる方からこんな話を聞きました。
その方が受けている布教の授業で、学生がそれぞれ法話を発表するという課題があったそうです。
その中で、一人の学生が、高校時代からオンラインカジノをやっていること、そして、今はパチンコにはまっており、そのテクニックや魅力などを面白おかしく語ったそうです。
その「法話」と称するものに対して、担当教官は高評価だったそうです。
自分も、以前にその大学で科目履修生として布教の授業を受けていました(先生は違います)。
そのときに教えていただいたのは、まず、伝えたい「教え」を決めることでした。
そして、それを補強するために、宗祖の言葉であったり、自分の体験談やエピソードなどで構成していくというものでした。
丁寧にフォーマットを教えていただいたおかげもあり、自分の時には「暴走する」学生はほとんどいませんでした。ただ、自分と同じような年配の学生には「自分史」の披露に終始する人が多かったように思いますが・・・。
つまりは、宗派として伝えたい何かがあるかどうかが、法話の必要条件ということでしょう。
その授業の中では、他にも色々と役に立つことを教えていただきましたが、その中で参考にすべきは浄土真宗さんだともいわれました。
浄土真宗さんが布教においては、一番熱心で、洗練されているように仰っていて、本山では、「辻説法」もやっているから一度、見に行ってきなさいとも言われました。
そして、浄土真宗さんの法話の強みは「ゴール」が決まっていること。つまり、「阿弥陀さんへの絶対の信仰」という確固たるゴールに向かって話を組み立てることが強みということでした。
一方、真言宗の場合、ゴールとして考えられるものが複数あるので、まずはそれを一つ選びなさいと言われました。
自分が、大学の科目履修生だったのは、高野山の塔頭で役僧をしていたときです。 自分が法話の授業を受けている旨を知った上綱(説明が面倒なので「住職」と読み換えてください)様は、「法話は実践だから」といって、その日に寺で行われた回向(回忌法要とか)に、ずっと職衆(脇僧)として入って、ご自身の法話を聞くように言われました。
そして、すべて別の内容の法話をしてくださいました(わざわざ自分の為に色々なパターンを聞かせて下さった優しさに感謝でした)が、ゴールは共通していました。
死んだらおしまいではないこと。
霊は存在しており、遠くにいるわけではないこと。
そして、残されたものの供養、思いは必ず彼らに届くということでした。
高野山に先祖供養に訪れた方にとって、これこそが安心(あんじん)に違いありません。
布教の先生の話に戻りますが、
「私たちが辻説法をしたって、誰も足を止めないよ。でも、葬儀の場では、嫌でも聞いてくれる。しかも、身近なものの死という特別な状況で。だから、その機会を無駄にしないで、よい法話をするように。」
とも言われました。
現在、通夜のない一日葬というものが増え、時間的にタイトな葬儀が多くなってきました。「開式から出棺まで一時間で済ませてくれ、しかも初七日込みで」という葬儀もあります。それでも、葬儀社からNGが無い限り、五分でも三分でも法話をするようにしています。
あまりレパートリーは無いのですが、自分の法話のゴールは「即身成仏」とか「生かせ いのち」あたりです。はなはだ拙いですが、内容としては
死んでもそれで終わりではないこと
死んだ人を生かし続けることができること
そのためには、残された人が、故人のことを思いつつ、しっかりと生きること
です。
残された方には、故人に対して、もっと、色々してあげればよかったと後悔している方も多いです。かくいう自分も、両親の死に際してはそういう思いでしたし、いまでもその思いは消えません。だからこそ、同じような立場から、遺族の方たちに安心していただきたいと心から思ってお話しさせてもらっています。
葬儀は要らない、お墓は要らない、ややもすれば宗教もいらない・・・という不穏な動きがある中、最後の機縁としてつながった方たちもいます。
縁なき衆生は度し難し
自分たち僧侶が、その縁を無駄にするようなことがあってはならないでしょう。
今や、動画サイトなどでも法話がたくさん上がっています。色々な宗派の「売り」を見て回るのも面白いと思います。