生かされているということ

 あけましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願いいたします。

 今日も沢山の方が星まつり護摩供にご参加下さり、ありがとうございます。

 

 今日は、星まつりについてごくごく基本的なことをお話したいと思います。

 

 まず、前をご覧ください(写真はFB参照)。

 三本の幡と、その前に6本の幣串がたっています。

 何か、仏教っぽくないと思われたのではないでしょうか。

 そもそも星まつりって、誰にお願いしているのでしょうか。

 この星まつりの札をご覧ください。この一番上に梵字が書いてあります。

 これは「種子(しゅじ)」といって、その文字で仏様を現わしています。

 この札の種子は「ロ(ウ)」と読み、北斗星を表しています。

 

 その奥には、小さいですが「星(供)曼荼羅」が飾ってあり、こちらを本尊としています。そこには、色々な星が書かれています。西洋占星術でお馴染みの星座も含まれています。曼荼羅中央の仏様は金輪仏頂尊という仏様で、聞き慣れないかもしれませんが、大日如来もしくは釈迦如来と同体とされています。

 

 要は、文字通り星を供養して祈願しているのです。

 話を元に戻して、まえの三本の幡を見てください。

 右は「本命宿」といって、自分の生まれた日によって決まる星です。

 真ん中は「当年星」といって、数え年で毎年変わる九曜星です。よく暦を見て、黒マルだとか白マルとか見て一喜一憂されているかもしれませんが、その横に計都星とか日曜星とか書いてあるものです。

 左は「本命星」といって生まれ年の干支で定まる北斗七星の星の一つです。

 このほかにも大事な星があるのですが、メインのこの星を中心に供養して祈願しているのです。

 ご自身の星を知りたい方は、お声がけください。

 ちなみに、自分の「本命宿」は「畢(ひつ)宿」なのですが、これと生まれた曜日などを組み合わせると、羽田守快先生という著名な行者さんの本による判定は「溺れるカラス」だそうです。カラスだけでもどうかと思いますが、追い打ちまでついています。同じような思いをしてもいい方は、お教えします。

 

 今や、宇宙は手の届かない神秘の世界ではなくなってきました。

 特別な訓練を受けなくても、お金さえ積めば行くことができるようになりました。

 自分は、宇宙に行くのも、女優と付き合うのも興味が無いのですが・・・。

 そんな状況では、星まつりなんていうものは、神秘的でも魅力的でもないものになりつつあるのかもしれません。

 

 たしかに宇宙に対して知識が増えているのは確かでしょう。

 ただ、それが勘違いとなって、宇宙も人間がコントロールできるとまで考えるようになってはいけないような気がします。

 そもそも、この地球でさえ、人間のコントロール下にありません。

 「よく、地球を大切に」とか「地球にやさしく」なんてスローガンが心地よく使われていますが、人間のエゴとおごりが丸出しのものではないでしょうか。

 そもそも地球は人間のものではないですし、むしろ地球が一番喜ぶのは、破壊者たる人間がいなくなることかもしれません。

 

 仏教では、神道地鎮祭にあたるものとして「土公供(どこうく)」というものを修します。

 たしかに人間世界のルールでは、対価を払い、前の所有権者から土地を購入し、不動産登記をすれば、堂々と土地の所有を主張できます。

 しかし、それって、ただの人間の「ローカルルール」にすぎないわけです。

 ですから、土地の神様を供養して、「使わせてもらう」挨拶をする必要があり、それが土公供というものです。

 

 つねづね「生かせ いのち」というスローガンを紹介しています。

 しかし、それと同時に忘れてはいけないことがあると思います。

 それは、私たちが「生かされている」ということです。

 

 何に生かされているのか。

 神と呼んでもいいですし、仏様でも構いません。「お天道様」だっていいと思います。

 何か、偉大な力の下で、何らかの意味や使命を与えられて「生かされている」と考える方が、スムーズに生きることができるかもしれません。

 

 自分の命ですら、自分のものではありません。

 レンタル期間がいつまでか分かりませんが、有効に使わないともったいないです。

 

 自分の人生だから好き勝手に生きる、なんていうのはどうなんでしょう。

 神にも匹敵すると勘違いして、バベルの塔を建てる愚行と変わらないというのは言い過ぎでしょうか。

 

 夜空を見上げて、自分を見守り、導いてくれる星に思いをはせて、自分を生かしてくれている様々なものに感謝できる一年になればよいと思います。

 

※ 令和四年 元日 星祭護摩での法話に加筆修正したものです。