胡瓜加持 令和四年版

 本日は胡瓜加持にご参加くださりありがとうございました。

 

 この科学万能の現代にあって胡瓜加持などと言う非科学の代表、宗教というよりも民間信仰のようなものは、もはや絶滅危惧種といえるかもしれません。

 そこで、今日は胡瓜加持の根拠というか、論理構成について少し触れてみたいと思います。

 

 突然、知り合いが「俺は神になる。」と言い出したら、どうしますか。

やばい奴だと思って、そーっと距離を置く方が殆どではないでしょうか。

 たしかに、神として祀られた人もいますが、どちらかとしいうと生前のその方への崇敬や畏敬から「神にされた」場合が多いのではないでしょうか。

 基本的に、神は自分たちと一線を画した存在で、崇め奉る存在ではあっても、目標とする存在ではないように思います。

 

 一方で「俺は仏になる。」

 こちらも、少し奇異に映るかもしれませんが、「覚りを目指す」と言い換えれば、何ら問題がないでしょう。

 

 そもそも、私たちの中には仏になるための「種」がそなわっています。

 「仏性」と呼ばれるものです。

 

 仏性は人間だけが持つものでしょうか。

 仏教が、インドに発生して大陸経由で日本にわたる間に、その地域の文化によって変化を遂げたことはご存じの通りです。

 

 仏性についても、「人間にのみある」から「動物にもある」となり、次には「植物にもある」となり、最終的には岩や山といった自然そのものにも仏性を認めるようになります。

 「山川草木悉有仏性」という考え方です。

 日本人は、古来より山や岩そのものをご神体として、そこに霊的なものを認めてきたので、必然的な流れだったかもしれません。

 

 ただ、仏性があることと、実際に仏になるということとは一致するわけではありません。

 

 たとえば、皆さんの中にもペットを飼っておられる方がおられると思います。

 ペットは家族ということで、亡くなったには葬儀をする方も増えてきましたし、人間なんかよりも丁寧に回忌法要を続けておられる方もいらっしゃいます。

 もちろん、ペットの成仏を願ってのことだと思います。

 しかし、仏教の宗派の中でも、さらには僧侶の中でも、ペットが成仏できるかどうかは一致していません。

 ペットに仏性があることは認めながらも、自力では覚ることができない以上、次に一旦、人間に生まれ変わったのちに成仏するほかないという考えも有力です。

 

 冗談みたいな話ですが、どんな人でも救ってくださるという阿弥陀様ですら「南無阿弥陀仏」と唱えられない動物たちは成仏できないんだという方もいます。

 それに対して、じゃあ、オウムに「ナムアミダブツ」という言葉を覚えさせてしゃべらせればOKなのか?と返す方もいたりして・・・。

 そもそも、浄土真宗さんの場合は、阿弥陀浄土に行くことは「成仏」そのものではなく、そのための修行に最適最高の場所に行くという意味なのですが………。

 意外と、ペットの成仏については難しい問題があります。

 

 ところで、今回用いた胡瓜には、不思議な「護符」をまいてあります。

 さらには、修法の中で結界を張り、「開眼」も行っています。

 

 平たく言えば、これらの作法で、胡瓜を「胡瓜菩薩」にしています。

 「菩薩」さんですから、利他行のエキスパートということです。

 私たちが苦しんでいる病を、身代わりに引き受けてくれるというわけです。

 

 こんなことに胡瓜を使ってもったいない。食べ物を粗末にして・・・という方もおられるかもしれません。

 もちろん、この胡瓜たちは「スタッフがおいしく頂きました」ではなく、土に還します。

 

 しかし、胡瓜に「身代わり」になって得られた健康な身体で、覚りを開く、とまではいかなくても、善行を重ねる、徳を積むということが出来れば、それは胡瓜の為に「身代わり」で修業してあげることになるのではないでしょうか。

 それは、決して胡瓜を無駄にすることではないです。

 

 ちなみに、ペットが、生まれ変わりを経由せずに成仏できるかにっいて自分の見解を述べておくと、自分は肯定しています。

 ペットの愛らしい姿や動作で、飼い主が、怒りを抑えたり、辛さを乗り越えたりしてしっかり生きることで、成仏させてあげることができると思っているからです。

 

 どうか、胡瓜の代わりに元気に、しっかりと生きて、胡瓜を「胡瓜如来」であったり、一層立派な仏様にしてあげてください。

 

※ 令和4年7月8日 胡瓜加持での法話に加筆修正したものです。