高野山には専門の「案内人」さんという方たちがおられます。ガイドさんといった方が分かりやすいかもしれません。
自分のいた塔頭の墓所が、中の橋駐車場から奥之院へと向かう途上にありました。
ですから、そこで掃除をしていると、色々な案内人さんの案内を聞くことが出来ました。本当に、人によって切り口が異なっており興味深かったです。
以前にも書いたと思いますが、加行に入る前、僧侶としての最低のスキルを身につけるようにということで、「権教師講習」というものを受けました。
その講習の最後に、僧侶として第一歩を踏み出した証ということで「受明灌頂」というものを授かり、そのことを奥之院のお大師様に報告に行きました。
自分たちの姿を見て、ある案内人さんは
「あれは、ただの修行者。だれでもなれるやつ・・・(云々)」
と言って、参道に広がる観光客をまとめて、道を譲ることもしてくれませんでした。
一方、ある案内人さんは
「なりたてのお坊さんたちです。一番きれいな姿のお坊さんたちです。」
といって、観光客の方々を端に集めて、皆さんで合掌して見送ってくださいました。
奥之院に到着した時に、引率してくださった教学課長さんから
「何の力もないお前らなんかの為に、手を合わせて下さった人達に気付いたか。もったいないことや。せめて、これからお大師さんに、あの方たちのことを思って拝むんや。」
と言われました。
「プロ」として、他人の為に必死で拝んだのは、その時が最初だったと思います。
自分も、僧侶として駆け出しとはいえないくらいにはなりました。
日々の法務も、最初の頃とは異なりそつなくこなせるようにはなったように思います。
しかし、「一番美しい姿」とはそういうことではありません。
仏様が、一番喜ぶのは、私たちが菩提心を起こす姿だと言われています。
仏の道を正しく歩みます、という誓いを立てる姿です。
「えっ?覚りを開く姿の方が喜ぶんじゃないの?」と思われるかもしれません。
でも、覚りを開くなんて、そんな簡単なものではありませんし、仏様もそれはわかっているのでしょうね。
誓いを立てては、失敗して、懺悔して、また改めて誓いを立てて・・・
何度でも「一番美しい姿」に戻って、やり直すことを肯定して、推奨しているのが仏教なのです。
おん ぼうじしった ぼだはだやみ
毎朝、長いお経を唱える時間が確保できないとしても、これぐらいはおとなえできるのではないでしょうか。
顔を洗い、歯を磨くのと同じように、心も一度整えて、一日を「美しい姿」ではじめるルーティンを大切にしたいものです。