みんな仏の子

 今日も沢山の方がご参加くださりありがとうございます。

 

 今日はどうか分かりませんが、どこに座るか悩む場面は多いのではないでしょうか。

 昔ながらの上座、下座を意識してなかなか自由に座れない。誰がどこに座るかを確認して、そこを「基準点」にして席を決めるということは誰でも経験があるかと思います。

 指定席の方が気が楽で、自由席こそが「不自由席」だったりします。

 

 先日、昔お世話になった寺の葬儀に参列いたしました。

 「自由席」なのですが、意外とみんな的確な「指定席」を見つけていました。

中には、堂々と不正解をさらしている方もおられましたが・・・・。

 

 実は、僧侶の場合、席次の基準が決まっているので簡単だったりします。

 高野山真言宗ではそれを「臈次(らっし)」と呼んでいます。

 通仏教的な用語では「法臈(ほうろう)」といいます。

 

 今では大僧正だとか大僧都といった「僧階」なんていうものがあり、着用できる法衣や袈裟にも細かい規定がありますが、それは後の話。

 初期の仏教教団にそんなものはありません。

 

 唯一、序列の決定方法は、正式の僧侶(「比丘」「比丘尼」)になってからの年数の長幼です。

 僧侶になってからの「年功序列」というわけです。

 

 たとえば、新人が、戒を授かるのには、先輩が何人以上立ち会って・・・などの規定がありますが、その役に就くにあたって、年数以外の縛りはありません。

 このようにすることで、「役の重要性」が低下するのです。

 年数がくれば、誰だってつくことができる役だとすれば、役の有無で偉そうにしたり、軽んじられたりすることはありませんし、役のために足を引っ張りあったり、妬んだりする必要もないわけです。

 

 こういうと、先輩が一日でも早く入っただけで先輩風を吹かせて・・・というめんどくさいイメージを持たれるかもしれませんが、そうではありません。

 たしかに、師僧が病に臥せったら、弟子が全力で世話をする規定がありますが、逆に弟子が病に臥せった場合には、師僧が全力で世話をするように求められています。

 

 また、先輩を立てるのは当たり前ですが、逆に後輩を軽んじてはいけないともあります。同じ仏道を目指して発心した者同士、場合によっては後輩の方が先に覚りを開くことだってありうるわけです。ですから、互いに敬わなくてはいけないとするのです。

 

 インドではカースト制度が有名です。一応法律上は撤廃されたことになっているようですが、何千年も続いた文化が皆無になる訳はありません。

 インドで最もポピュラーな宗教はヒンズー教ですが、お釈迦さま当時でいうバラモン教がアップデートしたものといってよいでしょう。

 お釈迦さまの頃は、その宗教者たるバラモンが絶対的な力を持つ時代でしたが、商工業の発展とともに、そのことに疑問を呈する人も出てきたようです。そんな中で、誕生したのが仏教です。同時代には、いまなおインドで一定の信者を誇るジャイナ教も誕生しています。

 ご存じの通り、お釈迦さまは王子様ではありますが、バラモン階級ではありません。その次のクシャトリア階級です。そして、お釈迦さまは様々な身分の方を等しく弟子とされていますし、布教もされています。

 ときには、貴族の招待を断って、先約があると言って娼婦の宴に参加したりもしていますし。

 

 そういう意味では、仏教は徹底した平等主義を目指す宗教といえるでょう。

 独立後、インド最初の法務大臣になられたアンベードカルという方はカーストの外にある不可触民出身の方でしたが、身分制度の撤廃を目指してヒンズー教から仏教に改宗したのも、そのような考えがあったからでしょう。

 

 利益を追求する企業や、勝利を目指すスポーツなどで、年功序列を貫くことはそぐわないでしょうが、そのような価値観が不要な世界では、年功序列はむしろ軽んじてはいけないのではないでしょうか。たとえば、家庭や地域のコミュニティなんかです。

 

 そして、お寺もそういう場所でなければならないはずです。

 役や肩書があり、一般的に「社会的成功者」と呼ばれる方も、それはそれで気苦労も多いでしょう。

 お寺に来て、仏様の前に来たときくらいは、重荷をおろして、防具を外して、弱音を吐いたり愚痴を聞いてもらっていただいてはいかがでしょうか。

 

 また、冷たい世間にうんざりしている方なんかは、仏様の前に座って、たとえ世界中が敵であっても、最大の味方がここにいらっしゃると自信と安心を得て帰っていただければと思います。

 

 自分も、そのような環境を作るべく努力したいと思います。

 

※ 令和三年11月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。