修法は辛いものであってはダメ

 自分も教えていただいたことのある高名な僧侶の方がこんなことを書いておられました。

「人のために祈って、施主さんが救われるのはもちろんだが、代わりに自分が疲れてしまうような人は、行者に向いていない。」

 

 自分が、高野山で、「加行」という修業の途中で、伝授阿闍梨様より

「どうですか?」

と声をかけていただいた際

 「楽しいです。おかしいでしょうか?」

とお答えしました。

 大阿様は、何もおっしゃいませんでしたが、笑顔だったように思います。

 

 高野山の加行は約100日、外界とは連絡が取れません。昔は、加行が終わって出てきたら、戦争が終わっていたなんてこともあったそうです。今でも、加行期間中は親の葬儀にも出れません。正確には、出ても良いのですが、その場合、最初からやり直しです。

 また基本的には、一日中、修法や勤行をしています。

 特に、最後の護摩加行にはいると、慣れていないこともありますが、一座3時間前後かかるものを、日に3座ずつ。それ以外にも朝夕の勤行もありますから、睡眠時間は3時間くらいです。

 

 身体的にはきついのですが、楽しかったのはウソではありません。

 今までは、仏さまの前で手を合わせて、せいぜいその仏様に関するお経や真言をあげるくらいしか知らなかったわけです。

 しかし、行を進めていく中で、より丁寧な拝み方を学んでいくのです。

 詳しくは申し上げることができませんが、分かりやすく言うと、VIPを自宅に招待して、全力でおもてなしをするかのように、仏さまを供養する作法を学ぶのです。

 

 今日の護摩もそうです。

 前にも申し上げましたが、護摩は皆さんと仏様とのお食事会のようなものです。炉の口は仏さまの口です。どんどんご馳走をふるまっていくのが護摩です。

 仏さまとテーブルを一緒にするわけですから、参加する皆様にもそれなりのドレスコードが必要です。

 ですから、最初に洒水加持をして浄めて、さらには百八本の護摩木により煩悩を焼き尽くしています。

 おなか一杯になって満足された仏さまに、皆さんの願いを書いた添え護摩木をメッセージとしてお届けしているわけです。

 視覚的にもわかりやすいですよね。楽しくないですか。

 

 これは、祈願だけでなく葬儀のような「しんみりした」状況でも同様です。

 葬儀は、仏さまの世界に「帰る」作法です。

 導師は、自分が阿闍梨になったときの伝法灌頂と同様の作法もしています。要は自分の受けたすべてを「お土産」にして旅立っていただきます。

 悲しいお別れではあるのですが、感謝の気持ちで送り出す方々、その姿を嬉しそうに見ている故人、そして、ねぎらうように迎えに来てくださる仏さまたち、そのすべての方たちの「晴れ」の旅立ちの宴です。

 故人様が、大切な方たちに感謝されて送り出されたことで、自分が生きてやってきたことは間違いないものであったと安心して、誇らしくされている姿が眼前に浮かぶと、自分も嬉しくなります。

 

 長いお経や真言を必死で唱えることよりも大切なことがあります。

 目の前の仏様を観じることです。仏さまになったご先祖も同様です。

 こんなに近くにいらっしゃること。見守り続けてくださることを感じることができると、嬉しくて、楽しくないでしょうか。

 

 今日の薬師護摩で、お薬師様を近くに感じて、楽しんでいただけたとしたら幸いです。

 

※ 令和5年9月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。