不邪見

 今回で十善戒の話も最終回です。

 

 不邪見についてです。文字通り、邪(よこしま)な考えを持たないということです。

 邪な考えとは、簡単には、仏教の真理に反する考えのことです。

 よく言われるのは、「断見」と「常見」にとらわれないことだとされます。

 

 まず、「断見」というのは、人は死んだら何も残らないという考え方です。

 よく、物知り顔で、「仏教は無我を説いているのだから、死んでも何も残らないはず」という方がいらっしゃいます。

 しかし、お釈迦さまは、因果の道理を説いておられます。

 因果応報を否定するということは、責任のある生き方をするモチベーションが無くなる危険性があります。実際、他の宗教の方にとって「死んだらそれまで」という考えは、奇異なものに映るようです。

 たしかに、悪事を重ねている人がのうのうと生きている、逆に善人が報われていない場面も多いです。だからといって、因果応報を否定するのは早計です。

 私たちが積み重ねる「業」というものは、確かに記録されています。ただ、それがトリガーとなって、目に見える結果となるには、時間差があるわけです。

 ですから、痛い目に遭わないことをよいことに、悪さを続けている人は、荷台に時限爆弾やら火薬をどんどん積み続けているようなものでしょう。

 

 一方、「常見」とは、人は死んでも「我」(アートマン)という不滅のものがあり、輪廻するというものです。一歩進んで、また人として新たな人生を歩むことになると説明しているものもあります。

 しかし、これはあまりにも都合がよすぎる話でしょう。

 

 「盲亀浮木のたとえ」というものがあります。

 海深くに住む目の見えなくなった年老いた亀が、百年に一度だけ海面に顔を出すそうです。そのタイミングで、プカプカ浮いている流木に空いた穴に顔がスポっとはまることで、人に生まれる、さらには仏法に触れる機会というのは、それくらい滅多にない有難いことだというのです。

 ですから、私たちは、ゲームでリセットボタンを押して、一からやり直せるようなわけにはいかないので、せっかくのこのチャンスを逃さないように努力しないといけないというわけです。

 

 もっとやわらかい話をしましょう。

 何が正しくて、何が間違った考えかというのは難しいです。仏教的には正解でも、世間一般では不正解に見えるものもあるという話です。

 

 ある家族が舟に乗っていたときに、大波に煽られて、母親と奥さんが海に落ちたそうです。どちらを先に助けますか?女性の方は、親と旦那さんと読み替えてください。

 

 答は出ましたか?

 

 儒教的な、多分に道徳的な立場に立てば、親の恩が何よりも優先でしょうから、母親を助けるのが正義でしょう。

 

 近代的な合理主義的な立場だと少し複雑かもしれません。まずは体力的に厳しい親を助けてから配偶者を助ける。いや、体力のある配偶者を助けて、一緒に親を助ける方が合理的かも。そもそも、二人とも助ける余裕があるのか、どちらか一人しか助けられないとすれば・・・・などと、色々な条件を考慮に入れて正解を探さないといけません。

 

 では、仏教の立場ではどうでしょうか。

 近いほうから助ける。それだけです。

 

 帰宅されてから、ご家族に質問するのはやめてくださいね。家庭不和の原因になりかねませんから。

 

 さらに申し上げると、人の価値観はバラバラで、人それぞれの正解を持っているといえるでしょう。

 

 以前に西国観音霊場の先達をしていたときのことです。

 西国霊場は、一度満願をすると、申請することで先達になることができます。あとは何周かするごとに先達のランクが上がっていきます。

 それもあって、案内するお客さんの中には、先達資格をもつ方がちらほら見受けられます。

 

 そんな中の一人の男性からこんなことを言われました。

 「自分でお金を出さずに、観音様にお願いして、願い事は叶うんですかね。」

 はじめ、何を言っているのか分かりませんでした。少し、話をして、言いたいことがようやくわかりました。

 そのお客さんたちは自分でツアー代金なりを負担してお参りしている。それに対して、先達である自分は、代金も払わずにタダでお参りさせてもらっている。そんな人間が、観音様にお参りしたって願い事は叶うわけがないというわけです。

 自分は、こう申し上げました。

 「自分が先達をしているときには、自分自身の願い事はしていませんよ。みなさんの願い事を聞き届けてくださいますようにと観音様にひたすらお願いして、応援しているだけですよ。」

 しかし、その方は、この偽善者が、といった感じで納得していないようでした。

 価値観の違いは如何ともしがたいと思った瞬間でした。

 

 今日の護摩にしても、自分は自分自身のお願いはしていません。

 一枚一枚、添え護摩木を読み上げて、お薬師様に皆様の願いを届けることに全力を注いでいます。間違っても、ハロウィンジャンボが当たりますようになんてお願いしたりしていません。それはそれで、別のときに、一人で、しかも今日のような息災護摩ではなく、お金儲けに特化した増益護摩をしますから大丈夫です。

 

 もしかすると、不邪見というのは、自分自身の価値観だけにとらわれていてはいけないという意味も含まれているのかもしれません。

 何が正しいのか、近視眼的になるのではなく、多様な立場や価値観を尊重して探さないといけないということかもしれません。

 

※ 令和3年10月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。