ときどき拙寺を手伝ってくださる僧侶の方からこんな質問をされました。
「洒水の最後に、三度点を打つような作法があるのですか?」
洒水とは、散杖という40~50cmの杖を用いて、水を灌ぐ作法で、その場を清めたり、供物や人を清めたりする作法です。
洒水器に入っている水を振りまくような所作をするのを見たことがあるかもしれません。
実際に、その作法は流によって様々です。
自分は、高野山真言宗で得度をしましたから、「中院流」という流で加行を受けましたが、同じ中院流でも、習った大阿闍梨さんが違うと、微妙に所作が違ったりします。
自分もあまり他流のことに詳しくはないですが、最近伝授を受けた安流や西院流の洒水はかなり違いました。
それこそ、西院流の中には、最後に縦に三本引くみたいな作法があるので、
「自分の知識の中では思い当たるものはないですが、流によっては有るのかも知れませんね。」とだけ申し上げました。
その後、その方が、発言の主に尋ねたところ
「最後に チョンチョンチョンってやった方が格好いいじゃない」
と、のたまったそうです。
怒りを通り越して、面白かったです。
ちなみにその方、他流の阿闍梨さんとかでもなく、そもそも加行もしていない方でした。
越法になるので、あまり詳しくは申し上げられませんが、こんな話を紹介します。
洒水で散杖を振る前に、洒水器をカンカンカンと叩く作法をします。
せっかく水をつけたのに、水を切ってしまうようで不思議に思うかもしれません。
これは、平安時代後期の寛助僧正が、普賢延命菩薩御修法をされたときに、振りまいた水がご本尊さんの目尻にかかって涙の様であったということから、以来、水を切る作法が加わったとされています。
しかし、江戸時代の高僧、浄厳和上という方は「カンカンカン」は不要とされました。
というのも、寛助さんが修法したときのご本尊さんは、図像で、敷曼荼羅だったというのです。ですから、散杖から滴った水が下に落ちて、たまたまご本尊様の目のところの顔料が滲んで「悲劇」になったというのです。
ですから、通常の、敷曼荼羅ではなく、はるか前に掛けてある図像だったり、木や金属の立体のご本尊様を用いて修法する場合には意味がないと仰ったわけです。
この浄厳さんという方はすごい方で、散逸したり混乱して伝わっていた様々な修法を研究して再構成や再構築をされたそうです。その自信作が「新安流」らしいです。
また、胎蔵曼荼羅についても、儀軌とは異なっている、といって新しい様式の曼荼羅を作らせたそうです。具体的には、真ん中の「中台八葉院」の色を赤ではなく白にしたそうです。
実際、中台八葉院の色を赤にするというのは、どこにも書かれていないそうです。
それに対して、やはり江戸時代のスーパースターの慈雲尊者が、浄厳さんの功績を評価したうえで、「お大師様以来の伝統をないがしろにするのはダメ」と批判したとか・・・。
長く伝わってきているものを変えることが必ずしも悪いわけではないと思います。
ただ、それにはそれなりの根拠がないと話になりません。
少なくとも浄厳さんや慈雲さんのような碩学の高僧レベルであって、はじめて土俵に上がることができる話だと思います。
自分のような愚僧は、とにかく一挙手一投足を間違えないように伝えていくことすら大仕事です。
このことは、僧侶だけではないでしょう。
仏事だけでなく、色々な伝統が日々失われています。
時代の流れだから、ある程度は仕方ないとは思いますが、意味をちゃんと知った上で、変えてはいけない部分を見抜く手間をかけるべきです。
なぜ「カンカンカン」が不要かを考えた浄厳さんと、格好いいから「チョンチョンチョン」を加えた件の僧侶の例をあげるまでもないでしょう(そもそも並べて書くだけでも失礼極まりないですね)。
ちなみに、チョンチョンチョンの方は、葬儀とかもされてるみたいですので、見かけたら「これが噂の・・・」と思ってください。