結縁灌頂

 いままで、何回か「灌頂」について書いたことがありますが、いま一度、簡単に書いておきます。

 

 灌頂とは、文字通り「頭頂」に水を「灌(そそ)」ぎかける儀式です。

 もともとは、インドで国王の即位式などで四大海の水を頭に注ぎかける儀式があったものを、仏教に取り入れられたものと言います。

 灌頂には、色々な種類があるのですが、一番メジャーなのは、結縁(けちえん)灌頂、受明灌頂、伝法灌頂の3つです。

 受明灌頂は、弟子灌頂とも言い、得度したのち、これからさらなる密教修行をすることを発意した際に受けるものです。

 伝法灌頂は、今までもたびたび説明していますが、加行を終えたものが阿闍梨となるためのものです。

 

 タイトルにある結縁灌頂だけは、後者2つと異なり、在家の方でも受けることができる灌頂なのが特徴です。

 あまり書いてしまうと、ネタバレになり面白くないので、ごく簡単に書きますと、目隠しをして、手に持った華(高野山では樒を用います)を曼荼羅に投げます(というか、落とす感じ)。その華が落ちたところの仏様と縁を結ぶというものです(「投華得仏」といいます)。

 曼荼羅金剛界と胎蔵があるように、高野山では例年、5月に胎蔵曼荼羅の仏様と縁を結ぶ結縁灌頂が、10月に金剛界曼荼羅の仏様と縁を結ぶ結縁灌頂が行われます。

 

 かつて自分自身を肯定できない時期がありました。

 追い打ちをかけたのは、たまたま新聞で、かつての同級生の死を知ったこと。

 何故、自分なんかが生きているのか、彼が生きていくことの方がよっぽと世の為になるに違いないのに・・・と、訳の分からない自己嫌悪に陥りました。

 他のいのちを犠牲にして生きるだけの価値が自分にあるのか、宮沢賢治の「よだかの星」のよだかのように苦悩して、それでも生きるために他のいのちを口にしなくてはならないことに罪悪感を感じさえしました。

 情けないことに、生物である以上、生存欲求があるため、絶食するには至りませんでした。それでも、最小限のものしか口にしなかったため、三か月で20㎏ほど体重が落ちました(職場の同僚は病気によるものかと思っていたようで、気を遣ったのか、体重のことは一切口にしませんでした)。

 わざと難しい道を選んで、四国遍路をまわっていたのもその時期です。このまま、四国で・・・という気持ちもありました。

 

 そんなときに高野山へ参り、結縁灌頂に入壇しました。

 号泣しました。

 こんな自分でも生きていていいのだと、仏様に言っていただけたように感じたからです。ようやく、自分の存在を肯定できた瞬間でした。

 

 さきほどは、「仏様と縁を結ぶ」儀式と書きましたが、実際は「仏様との縁を確認する」儀式といった方が正しいかもしれません。

 誰もが、仏様の大事な子供であり、一部であるというのが真言宗の考えです。

 ただ、そんなことを意識することなく、日々の生活に追い立てられているだけという方が殆どではないでしょうか。

 自分が特別な存在である、誰もが「天上天下唯我独尊」であるということを意識することができれば、自信と責任をもって生きていくことができるのではないでしょうか。

 

 高野山塔頭で役僧をしているときに、40歳くらいの尼僧さんが加行をするためにいらっしゃいました。心身ともに少し不安がある方でした。ちょうど結縁灌頂が行われている時期でしたので、

「時間があるのでしたら、結縁灌頂を受けてきてはいかがですか。」

と申し上げたところ、ものすごい形相で

「前に受けました! そんなに言うなら、あなたが受けてきたらどうですか!」

と言われてしまいました。

 

 たしかに結縁灌頂金剛界と胎蔵を一回ずつ受ければコンプリートなのかも知れません。

 しかし、先ほども書いた通り、仏様との縁を確認する機会ということでしたら、何回受けてもいいわけです。実際、自分も胎蔵の方は複数回受けています。

 

 ちなみに、その方は、加行全体の4分の1すら修了することなく山を下りていきました。

 「色々な力が、私の行を邪魔している」などと、被害妄想的なことを口走り、ついには部屋から出てこなくなってしまいました。

 仏様と向き合うのが行なのに・・・。

 仏様とつながっていることを確信できていないゆえの結末だったと思います。

 

 残念ながら、高野山での結縁灌頂はコロナの影響で中止となっています。

 関東の方でしたら、高輪の東京別院で開かれるものが便利ですが、こちらも同様です。

 状況が変わり、結縁灌頂が開かれるようになりましたら、是非とも体験していただきたいです。特に、かつての自分のような悩みを抱いている方にはおすすめします。