不偸盗

 今日の十善戒の話は「不偸盗」についてです。

 

 他人の物を盗むなかれ、という意味です。

 前回の不殺生よりも簡単そうですね。

 たしかに、この中に刑事罰の対象となる窃盗犯はいらっしゃらないでしょう。

 

 でも、残念ですが、仏法は人間の作った法よりも甘くありません。

 たとえば、「あいつ新車を買ったな、いいなぁ、あんなの欲しいな」と心で思っただけでもアウトなんです。

 他人の物を、欲しがったり羨んだりすることで罪を犯したことになるのです。

 

 では自分の物なら自由に使えるのか。

 自分の物って何ですか。

 

 以前、「土公供(どこうく)」の伝授を受けました(先日遷化された上田霊城師より受けることが出来ました)。

 「土公供」といってもピンとこないでしょうが、仏教版の地鎮祭のようなものです。

飾りつけや作法なども神式のそれと似たところも多いです。

 伝授阿闍梨さんは大きな違いとして次のように仰いました。

 「神式の地鎮祭では、土地の不浄なものを祓ったり鎮めることに重点を置く。しかし仏教は違う。あくまでもその土地にいらっしゃる様々なもの(神、仏、霊・・・)をご供養して、土地を使うことを許してもらうという気持ちが大切だ。」

 

 たしかに、土地の権利書を持ち、登記を済ませれば、人間相手なら所有権を主張できます。しかし、それって人間が作ったルールに過ぎないわけです。

 神仏はもちろん、他の人間以外の生物にとっても知ったことじゃないわけです。

 

 さらに進めると、自分の身体ですら自分の物なのか疑問に思えませんか。

 そして、私たちが刻々と過ごす時間、人生ですら自分の物ではないと考えることはできないでしょうか。

 

 私たちは、魂の容器としてこの身体を借りて、この娑婆の世界を仏の世界にするという菩薩行に励むように、この世に送っていただいているわけです。

 

 ところで、小学生の時に聞かされて、すごく怖かった話があります。

 坊さんの自分が言うのも何ですが、聖書の話で「タラントのたとえ話」というものです。

 

 ある商人が旅に出るにあたり、三人の使用人にそれぞれ5タラント、2タラント、1タラントのお金を預けました(タラントというのはお金の単位で、結構な金額のようです)。

 商人が旅から帰ると、各人が預かっていたお金について報告します。5タラント、2タラント預かっていた二人は、それを元手に商売をして倍にしていました。一方、1タラント預かっていた一人は、減らすのが怖くて土の中に埋めてそのままにしていました。

 商人は、先の二人を褒めたたえ、その増やした分のお金を含めて所有することを許します。一方、1タラントを一切活用しなかった者は、屋敷から追い出されてしまったという話です。

 

 タラント=タレント(才能)と解釈する向きもあるようです。

 

 人によって、仏様から預けてもらった才能はまちまちでしょうが、人としてこの世に生まれたというだけでも大きなチャンスをもらっているわけです。才能を活用しきることなく、仏様の世界に帰ったらもったいないですし、許されないでしょう。

 

 折角の人生、寿命は如何ともしがたいですが、せいぜい身体を労わって、少しでも健康で長生きして菩薩行を積めるようにするというのも「不偸盗」といっていいのではないでしょうか。

    本日の護摩によって、皆様が健康に過ごせることをお祈り申し上げます。

 

 ※ 令和2年11月の薬師護摩での法話に加筆修正したものです。