本日も、薬師護摩にご参加くださりありがとうございます。
今年は、高野山で戒律講習会を受けに行ってます。
そこで聞いた話をしたいと思います。
よく「仏法僧」といいます。聖徳太子が「篤く三宝を敬え」といった「三宝」のことです。
ここでいう、「僧」とは個人の僧侶のことではなく、修行集団である「僧伽(さんが)」の意味です。そこには僧侶だけでなく、在家の信者や支援者も含まれます。
そこでは「布薩(ふさつ)」という行事が月に二回程度開かれていました。
簡単に言うと、反省会です。
僧侶が、期間中にどのような戒律を犯したかを告白し、懺悔する(もちろん謝ってすまないレベルならば追放処分です)ものですが、徐々に戒律の勉強会、さらには在家の方むけの布教の機会ともなっていったようです。
前置きが長くなりましたが、せっかく毎月の薬師護摩にご参加してくださってる方にもそのような機会を持つことができればよいと思います。
そこで、基本的な戒である「十善戒」について、少しずつお話ししていこうと思います。
十善戒とは以下のものです。
不殺生(ふせっしょう)
不偸盗(ふちゅうとう)
不邪淫(ふじゃいん)
不妄語(ふもうご)
不綺語(ふきご)
不悪口(ふあっく)
不両舌(ふりょうぜつ)
不慳貪(ふけんどん)
不瞋恚(ふしんに)
不邪見(ふじゃけん)
今日は、最初の「不殺生」についてお話しします。
「殺すなかれ」という戒律をそなえる宗教は仏教だけではありません。むしろ、ほとんどの宗教で説かれているのではないでしょうか。
そういう意味では、最も普遍的で、納得の得られる内容の戒律といえるでしょう。
しかし、文字通りの意味では、守ることが最も困難な内容にもみえます。
「私はベジタリアンですから大丈夫」という方がいらっしゃるかも知れません。
残念ながら、「山川草木悉有仏性」、植物も仏性を持つ立派な生き物ですからいのちをいただいていることに変わりはありません。
食べるだけではなく、色々な形で、意識しようとしまいと、他のいのちを奪って生きているのが私たちです。
仏教と同じころに起こったとされるジャイナ教は徹底した非暴力、不殺生を貫く宗教で、厳格な信者は、空気中の微生物を吸い込んで殺さないようにマスクをして、小さな虫を誤って踏み殺さないように、ほうきで掃きながら歩くそうです。
今では、お寺で使う水も水道水が殆どでしょうが、井戸水の頃は、水の中の小さな虫を殺してしまわないように、虫が眠っていて水面に浮かんでいないような時間を選んで汲んだり、「水羅」というネットで濾過して虫が入らないようにします。
でも、そのようなことをしても100%「不殺生」を通すことは難しいでしょう。
それでは、どう解釈すればよいでしょうか。
まずは、自分のいのちが、他の多くのいのちに支えられていることを自覚すること。
そして、そのようないのちをいかすために、自分がそれにふさわしい生き方をするということに尽きるのではないでしょうか。
私たちは生きているというよりも生かしてもらっているわけです。
ですから、生かしてもらっている限りは、いのちをいかに有効に使うかということを常に心にとめなくてはならないでしょう。
ただ、日々、全力疾走では心身ともにくたびれてしまいます。
今日の護摩で、少しでもホッとしていただき、明日からも多くのいのちをいかす活力を得ていただけたとしたら幸いです。
※ 令和2年10月薬師護摩の際の法話に加筆修正いたしました。