お供え 

 最近、葬儀が簡略化されてきたのは、色々なところで話されているとおりです。

 

 葬儀の作法の中で、供物を加持する場面があるのですが、いざ印を結んで加持をしようとすると、祭壇には一切供物が上がっていなくて、一瞬フリーズしたなんていうこともあります。

 御膳はなくても、茶碗一杯に持ったご飯に一本箸だったり、お団子を積んだもの、いわゆる「枕飯」「枕団子」なんかは最低限用意してほしいなあ、と思います。

 寺の周辺の葬儀社は、いまだにちゃんとお膳を用意してくださいますし、式中初七日であっても、初七日の分は別にお膳を用意してくれていますが、全国レベルの中では、レアなケースになっているのかもしれません。

 

 最近、葬儀をした方たちの供物は、ステレオタイプではないものだったこともあり、心に残るものでした。

 

 ある方は、ミスタードーナツでした。

 故人様が甘いもの好きだっというのは聞いていたので納得でした。用意された身内の方が「本当は、ダンキンドーナツが好きだったんだけど、今は手にはいらないから・・・」なんていうお話を、出棺前の思い出話としてされているのもほほえましかったです。

 

 ある方は、いもけんぴでした。

 故人様は高知県出身。スーパーで調達したものではなく、わざわざ高知県のアンテナショップで探してこられたこだわりのものだったようです。

 

 ある方は、コーラでした。

 最後に末期の水のように、綿を使ってお酒で口を湿らせてあげる方は今までにもいらっしゃったのですが、コーラは初めてでした。炭酸飲料がお好きだったそうで、最後の頃は、病気のせいで飲めなくなって辛かっただろうということで、かわるがわる皆さんで飲ませてあげている姿は、故人様の人柄が偲ばれて素敵でした。

 

 つい先日は、マグロの切り身でした。

 納めて下さったのは、近所の方たち。故人様のことを昔からよく知っているご近所さんだからできることでした。

 

 大分前には、肉が好きだったということで、ステーキが供えられていたり、あるときは、お酒が好きだったということでお酒が供えられていたり、しかも銘柄がよりによって「閻魔」だったなんていうこともありました。そのころは「不精進」なものを供物にされるのに少し抵抗がありました。

 でも、今は少し違います。

 

 昔、ある悲惨な事件現場にお供えされているお菓子などの供物を勝手に盗って食べ散らかした連中がいて、騒動になったことがありました。

 なるほど、死者が物理的に供物を消費することはありません。それならば、傷んでしまう前に生身の人間が食べてやる方が合理的という言い分もあるでしょう。

 でも、そのときの世論の反応はそうではありませんでした。死者への供物に手を出すことはタブーとする人が多かったようです。

 

 話は異なりますが、コンビニのレジ前にある寄付金を盗んだ人が、通常よりも重い刑罰を科せられたという事件もありました。金額もさほどではなかったのですが、人の善意で積み上げられた金銭に手を出したということが、情状として加味された判決でした。

 

 前者のお菓子にしても、後者のお金にしても、物理的にはスーパーの陳列台に並ぶお菓子であったり、銀行に預けられているお金などと何ら区別はできません。

 しかし、私たちがそこに差異を認めたくなるのは、そこに込められた「人の思い」を尊く思っているからでしょう。

 

 七月盆が終わり、今度は八月盆です。拙寺ではほとんどの檀家さんは七月盆ですが、八月盆の地域の檀家さんも何軒かあります。世間的には八月盆がメジャーでしょう。

 盆飾りをどうするか、供物をどうしたらよいか等、問い合わせをして下さる方もおられますが、地域によってバラバラなのが実情です。しかも、仏教的な意味ではなく、習俗に依拠していることも多いです。

 

 前述の通り、仏様や故人様への供物は、物そのものと一緒に心を供えているものです。

 お盆は、ご先祖様の夏休みであったり、里帰りみたいなものです。

 難しく考えずに、故人様の好物を供えてあげて、一緒に食事を楽しむことが大切だと思います。