先日、僧侶紹介業者から、法務依頼の電話があったのですが、少し違和感があるものでした。
「喪主さんと長く話をしてください。」
との指示があったのです。
そこの業者の仕事は、ちょこちょこ受けているのですが、そのような指示があったのは初めてでした。
少し、不安に思いながら、ご喪家に挨拶の電話を入れて、色々とお話をしたところ、理由が分かりました。
実は、自分の前に、別の僧侶の方に依頼があったそうです。
そして、その方から挨拶の電話があったそうなんですが、その対応があまりにビジネスライクすぎて、心が感じられないということで、NGを出したそうです。
そして、代打が自分だったと・・・。
その僧侶の方が実際にどういう対応だったかは分かりません。
ただ、想像できる部分があります。
まず、その法務の内容ですが、炉前読経というものでした。
「直葬」という表現をすることもありますが、葬儀場などの施設を利用せず、火葬場のみで完結するものです。
そのまま、火葬することもありますが、それでは寂しいと思い、せめて火葬炉の前で5分から10分くらいでもよいのでお経をあげて欲しいという方もおられます。
それを、狭義の「直葬」と差別化して、業者によっては「炉前読経」とか「火葬式」と呼ぶようになっています。
もちろん、場所と時間の制約があるため、できることは限られます。
当然、引導作法なんかできるはずもありません。
それでも自分は、お経以外に、戒だけは授けるようにしています。
というのも、炉前であっても戒名を希望される方が多いからです。
戒も授けずに、戒名だけ授けるというのもあまりに方便が過ぎると思います。
そして、戒名をつける上では、事前に葬家に御挨拶をして、故人様のお人柄や生き様や趣味などを伺うことになります。
檀家さんでもなく、場合によっては一期一会になる関係ですが、それでも、このお話をするおかげで、自分なりに故人様をイメージして、思い入れをもって葬儀をすることができるようになっていると感じます。
ところが、今回は「戒名なし」というものでした。
しかも、別の寺から戒名が授与されているので、その戒名を戒名紙に代筆して用意してこい、というものでした。
こういうのは、ときどきあるパターンです。
菩提寺はあるものの、遠方なので住職が来れない(自分だったら、どこでも行きますけどね)。
そこで、とりあえず火葬の際には、どこぞの坊さんに「出棺経」程度のお経を唱えてもらう。
そして、四十九日あたりの納骨の際に、菩提寺でしっかり法要をする(そして、しっかりもらう)という流れです。
この場合、「主役」の菩提寺さんを押しのけるような発言や対応には気を付けなければなりません。
長く客待ちした挙句に乗せた客が「超近距離」の客に当たったときのタクシー運転手さんのようにがっかりして「塩対応」をしたわけではなく、むしろ、気を遣って、話を手短にしようとしたのかも知れません(今は近距離でも快く対応してくれますけどね)。
でも、それだって、経験とデータにとらわれた思い込みによるものにしかすぎないんですよね。葬家はあずかり知らないことです。実際に今回も、特に菩提寺さんがある方ではありませんでした。
身近な人の死なんて、滅多にあるものではありません。
人の死に立ち会うことが日常である僧侶と異なり、ましてや身近な人の死に接して、普通でいられる方はいないでしょう。
それを、簡単に、このパターンはこんな人が多いから・・・というふうにカテゴライズして対応するのは失礼極まりないことでしょう。
以前、高野山で役僧をしているときに、同僚の方から
「(在家出身で)お経をあげて、お布施をもらって生きていけるというのは、ものすごいことなんだぞ。」
と言われました。
実際、せっかく修行をして阿闍梨になったのに、僧侶として生計を立てることが出来ずに、一般の職に就いている人がたくさんいます(さっきの発言をした方も運送会社を立ち上げるとかいう噂)。
はじめて、人の為に、お経をあげさせてもらったときの喜びを忘れてはならないと、自分を戒める良い機会になりました。