余韻こそ贅沢

  以前、塾講師をしていた頃の同僚の方々は個性豊かな面々でした。

 その中のお一人は、アマチュアで指揮者をなさっているとのことでしたが、こんなことをおっしゃっていました。

 「人生で至福の時と聞かれたら、演奏が終わった瞬間の静寂と答えるよ。ときどき、その瞬間を大切にせずに速攻で拍手するやつとか腹立つんだよね。自分はこの曲がここで終わるのを知っています、ってアピールしたいのかって。」

 

 先日、とある葬儀の導師をつとめたときのことです。

 告別式が終わり、出棺までの時間、お花入れや形見の品が棺に納められ、最後のお別れの時間でした。

 まだ、お若い方だったこともあり、遺族の方もなかなか棺から離れがたく、喪主さまも、それまでこらえていたのでしょうが、堰を切ったように声を上げて泣き始められました。

 すると、司会の方が平然とステレオタイプで、

 「お名残は尽きませんが、出棺のお時間です。後方より棺のお蓋が参ります・・・」

とはじめたのには、少しびっくりしました。せめて、もう少し寄り添った言い方や対応があるだろうにと思ってしまいました。

 

 

 たしかに、火葬の時間は決まっています。それならば、その分、式自体の時間を前倒しすればいいじゃないか、と思うかもしれませんが、時間ごとに使用料が決まっていることもあり、そう簡単ではありません。

 自分たちの読経時間も、葬儀社さんと打ち合わせをして事前に決めてあります。

 

 ときには、

 「今日は、お花入れの時間をゆっくり取ってあげたいので、皆さんが集まり次第、少し早めに開式してもいいですか。」

と提案されることもあります。

 あまりに長く時間をとりすぎて、手持ちぶたさになったようにも見える遺族の方たちが、故人様の思い出話を、時には涙し、時には笑って話されるのを見るのも良いものですし、素敵な「餞別」だと思います。

 

 こちらも、少人数であったり、小さな子供さんがいたり、逆に高齢の方が多いような場合には

 「お経の時間を少し短くして、その分、すこし長めにお話をさせていいですか。」などと提案したりもします。

 

 葬儀では、授戒と引導作法の部分が最も大切なのは間違いありません。

 では、何のためにお経をあげるのでしょうか。

 

 よく仏様と衆生の関係を「仏日の影」などといいます。

 いくら、仏様が近くにいらしても、私たちの心の池の水が澄んでいなければ、そこに仏様が影として映ることは無いわけです。

 では、私たちの心を清らかにする手っ取り早い方法は何かというと、ひとつには、美しい言葉を話すこととされます。

 そして、その美しい言葉の代表こそ、仏の言葉であるお経です。

 

 そういう意味で、お経をあげること自体に功徳があるといえますが、仏様を近くに感じて、お話をしやすい環境を整える手段という重要な意味もあります。

 

 そのように考えると、先ほどの指揮者の方の話ではないですが、お経も唱えているときよりも、終わった瞬間こそが至福の瞬間なのかもしれません。

 一番、自分の心の汚れがそぎ落とされて、仏様を身近に感じることができる瞬間なのですから。

 

 お経を一生懸命唱えてくださるのはありがたいですが、むしろ、そのあとの時間を大切にしていただければと思います。

 体験として、心が軽くなったり、仏様との一体感といったものがあると、一層、読経の悦びに気付くはずです。また、自分に合うお経なんていうのを見つけるのもいいかもしれませんね。