三力偈

 今日は胡瓜加持にご参加くださりありがとうございました。

 加持とは、一般的には仏様の加護のことです。

 真言宗的には、お大師様が「仏日の影」と表現されているように、仏の慈悲が衆生に向けられることを「加」、それを衆生が信心によって受けることを「持」として、その両者が感応する状態を言います。

 

 「加持」、「お加持」というと、病気平癒であるとか商売繁盛であるとか、現世利益的な、ややもすると「低位の」民間信仰に見られがちですが、自身の仏道修行が成就するようにといった願いも仏の加護があってこそです。仏教者である以上、どう呼ぶかは別として仏と自分が感応道交する「加持」は必須であるのではないでしょうか。

 

 その加持が実現するためには、ただ難しいお経やら真言やらを数多くあげて、手から摩擦で火が起こるくらいに数珠を擦ったりしても(高野山真言宗では念珠はジャラジャラ鳴らすのはタブーですけど)、駄目だというのです。

 

 今日の護摩行の中でも、何回か唱えていた「三力偈(さんりきげ)」というものがありますが、ここに答えがあります。

  以我功徳力(いがくどくりき)

  如来加持力(にょらいかじりき)

  及以法界力(ぎゅういほうかいりき)

というものです。

 まずは自分自身が、功徳を積む事。

 そして、仏様が加持の力を向けて下さること。

 しかし、これだけでは足りないというのです。「法界力」というのは、この世のありとあらゆるものの力のことで、それが必要だというのです。

 違う表現をすれば、様々な「縁」と言っても良いかもしれません。

 同じように原因の「種」を蒔いても、結果の「華」が綺麗に咲くかどうかは、よい土壌であったり適度な水であったりといった様々な「縁」が大きく作用するようなものです。

 

 四国の遍路にいったときの話です。関西初のバスツアーの最終回でした。月に一回ずつ、一年以上をかけて四国の八十八か所を巡り、いよいよ満願を迎える回でした。

 その中には全身白衣をまとった、いかにもベテランといった夫婦のおへんろさんがいらっしゃいました。実際、大峯山の入峰修行などにも参加されているとの話もされていました。

 最後の寺を打ち終えて、みな幸せ一杯の気分になっていました。そして、添乗員さんが、みんなの代わりに納経をしてくれていた納経帳や掛軸などを返し始めました。みんな、全部のページや枠が埋まった納経納品を見ては、感慨にふけっていました。

 すると、罵声が響きました。例のご夫婦でした。クレームでした。内容は掛軸に書いた納経の文字が、墨がはねて汚れているというものでした。印刷でもないので、墨がはねるのなんて当たり前だと思うのですが、その方たちは納得いかなかったようで、延々と「責任取れ」だの「何とかしろ」だのと繰り返します。添乗員さんもありったけの謝罪をするのですが、おさまりません。そもそも、添乗員さんには何の責任も無いのですが。

 結果、せっかくみんなが幸せな気持ちでいたバスの中が、修羅場となり、どんよりした気分で帰ってきました。

 

 たしかに、その方たちは、八十八か所のお寺をまわり、一生懸命、さぞかし上手にお経をあげて功徳を積まれたことでしょう。

 また、札所には加持力を有した、仏さまたちやお大師様がいらっしゃったのも間違いないです。

 でも、それだけだったんですね。

 自分とご本尊という仏様しか見えていなかったんですね。ツアーの巡礼では、添乗員さんが重たい納経帳やら掛軸を一手に預かって、納経をしてくれます。そのおかげで、参加者は勤行をすることに専念できるわけです。

 添乗員さんだけではありません。四国の山道をものともせずに最短で届けてくれるドライバーさん、一緒にはげましあう巡礼仲間・・・等々が眼中になかったのです。

 自分たちだけが主役で、仏様が監督・演出のドラマを生きているつもりなのでしょうが、みんながそれぞれのドラマの主役であることを忘れてしまっていたのです。

 

 「山川草木悉有仏性」

 全ての人だけではなく、ありとあらゆるいのちに仏性が宿っているというのが、我が国の仏教共通の認識です。

 みんな等しく仏の子。それぞれが互いに、知ると知らざると沢山の縁でつながり、助け合っている存在であることを忘れてしまっては「法界力」という部分がかけてしまっています。

 

 胡瓜にだって、仏性があると思っていないと、今回の胡瓜加持なんて何とも馬鹿馬鹿しいものに見えることでしょう。

 今日は、「胡瓜菩薩さん」に病気の源を代わりにうけとってもらったことに感謝して、この夏を元気にお過ごしいただければと思います。

 

※ 令和三年七月 薬師護摩、胡瓜加持での法話に加筆修正したものです。