毎年、御影供の由来をお話しするのも芸がないかと思います。
そこで、今日はほかの寺の檀家さんから、真言宗ってどんな教えなの?と聞かれたときに、お話していただけるような、真言宗の特徴みたいなものを紹介したいと思います。
「成仏」
一般的には、文字通り仏となることです。
真言宗では、成仏には三種類あるといいます。
理具の成仏、加持の成仏、顕得の成仏の三つです。
まず、理具の成仏です。
これは、私たちが誰でも、仏性をもっているという意味です。
ただ、それだけでは何の意味もありません。
俺は「やればできる子」と言っているだけです。
やらなければ、ただの「できない子」です。
次は、加持の成仏です。
これは、修業をすることで仏となることです。
いま自分も、「入我我入」すなわち仏様と一体になった上で、護摩行を修しました。
なにも、仏さまと一体化するのは僧侶だけの特権ではありません。みなさんも阿字観や月輪観などの密教瞑想をすることで体験できるものです。
ただし、これはウルトラマンのカラータイマーのようなものです。永続的なものではありません。
最後は、顕得の成仏です。
これは、フルタイムで仏さまでいられるようになった状態です。
これこそが「究極の成仏」といえるでしょう。
先日、智山派さんの講習会に参加したときに、ちょうどこの話がありました。
その講習会は、僧侶のみを対象としたものではなく、むしろ一般の方が熱心に受講されています。
そして、なかなか僧侶の立場ではできないような質問もあり、新鮮でもあります。
このときはこんな質問でした。
「空海さんは、どの成仏ですか?二番目ですか?三番目ですか?」
なかなか僧侶の立場ではお大師様に畏れ多くてできない質問ですね。
これに対して、講師の先生は「加持の成仏です。」と答えておられました。
これが唯一解なのかどうかは分かりません。
顕得の成仏と考えてもよいかもしれません。
加持の成仏である、とするのは、こういう根拠ではないでしょうか。
お大師様は「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば わが願いも尽きなん」という言葉を残して、入定されました。
迷える衆生がすべて救われるまでは、自分一人悟りの世界に旅立つことはない。
この身をこの世にとどめて衆生を救い続ける、という意味です。
お大師様が一緒に修業されているのは、兜率天にいらっしゃる弥勒菩薩です。
菩薩とは、如来の一つ手前の段階。
といっても、未熟なわけではありません。
自分よりも他者を優先して、悟りの世界へ導く存在です。自分は、最後でよいというのです。
如来になることができるのに、衆生の横に寄り添って手を引っ張ってくれるありがたい存在です。
そういう意味で、弘法利生という菩薩行に明け暮れているお大師様は、加持の成仏にとどまってくださっていると考えてもよいのでしょう。
今日の御影供は、そんなお大師様に感謝する日です。
あるいは、お大師様に、長い間お待たせしてすみませんという日かも知れません。
そして、早くお大師様に安心して肩の荷を下ろしていただけるように、私たちひとりひとりが頑張ることを誓う日なのだと思います。
※ 令和5年 御影供での法話に加筆修正したものです。