必要な時間はそれぞれ

 遠い昔の記憶ですが、大学で刑法を習ったときに、いつから「人」となり、いつ「人」でなくなるのか、という話がありました。

 始期についていえば、「堕胎罪」の客体となるのか、「傷害罪」や「殺人罪」の客体となるのかの問題になりますし、終期についていえば、どこからが「死体損壊罪」になるかという問題です。

 

 終期について、20世紀前半以降は、三徴候説といって、呼吸停止(呼吸の不可逆的停止)、心停止(心臓の不可逆的停止)、瞳孔散大という3つの徴候をもって人の死の診断基準とするものが一般的です。

 呼吸停止を伴わない所謂「脳死」を死に含めるかどうかで争いがあるのはご存じの通りです。

 

 かつて日本では人が亡くなった(ような)状態に陥ると、まずは「反魂」といって、死者の魂を肉体に戻して蘇生させようとしたそうです。そして、どうしようもないとなった時点ではじめて死者として扱い、「鎮魂」の作法に移行したそうです。

 今でも、「末後の水」までは生きている人として扱ったりしていますね。

 

 「死」をどこかの瞬間に限定して、その瞬間から「人」が「遺体」となり、「家族」が「遺族」になると線引きすることがそもそも不自然なのかも知れません。

 さきほどの三兆候説などを用いて死の瞬間を決めるのは、あくまでも社会における便宜上のことにすぎないでしょう。

 

 実際、下級審判決ではありますが、すでに死んでいるのですが、まだ生きているような状態の人を殺そうとした事案について「殺人未遂罪」が成立しています。

 すでに死んでいる以上、どう頑張ってみてもあらためて命を奪うことは不可能ですから、「不能犯」(どう考えても危険性がないので、犯罪が成立しないケース)となってもおかしくはないのですが、そうではないのというのも、心情的には理解できます。

 

  死を迎えたあとも、「曖昧な期間」があります。

 四十九日がそれです。

 インドでは、この期間は「中有」といって、死でも生でもない期間としています。この期間を終えると、無事に次の生に輪廻すると考えています。そして、その輪廻から逃れるために目指すのが「覚り」というわけです。

 ですから、仏教原理主義者でインド仏教以外は仏教に非ず、という方は、四十九日以降の一周忌だとか三回忌だとかをやることはナンセンスだと仰るわけです。だって、もう生まれ変わってしまっているわけですから。

 

 ただ、日本の仏教の考え方は少し違っています。中国での十王思想といった、死後に何回も裁判を受けるという話から、遺族が「追善供養」することで、弁護側の証人として、情状酌量を願い出るかのような効果を生じて、無事に極楽行きを勝ち取るのだという考え方になります。日本では、さらにチャンスが三回増えて、十三仏信仰でおわかりのように「十三審制」という裁判の長期化がされているわけです。

 

 ここで、「葬儀の時に成仏したんじゃないのか」とツッコミを入れる方はよくわかっておられる方です。

 その通りです。自分たちも葬儀の際には、成仏してもらえるように色々なことをして引導作法をしているわけです。

 ただ、成仏したと言っても仏様としては「若葉マーク」というわけです。ですから、この場合、十三仏は裁判官というよりも、ヨチヨチ歩きの仏様を少しずつ指導して、立派な仏様にしてくださる先輩と考えた方がよいでしょう。

 

 そして、この期間は亡くなった方の為の時間であるだけではなく、残された方にとっても大切な時間です。

 真言宗ではあまり使わない表現ですが、回忌について下のような呼び名をすることがあります。

  初七日・・・初願忌

  二七日・・・以芳忌

  三七日・・・洒水忌

  四七日・・・阿経忌

  五七日・・・小練忌

  六七日・・・檀弘忌

  七七日・・・大練忌

といったものです。

 細かい意味の説明は致しませんが、故人と遺族の進むプロセスを上手に表現したものになっています。

 故人の冥福を最初に願う初願忌で勇気づけられた故人は、「芳舟」に乗り彼岸に渡り、少しずつ仏様として修行をされます。そして、四十九日において、大いに修練されたことをもって、仏様として「仮免許」から、一人前の仏様になるというわけです。

 一方で、遺族の心の動きをも表しています。たとえば、四十九日の大練忌は、「未練」をたちきり「大いに練る(=悟る)」という意味で、遺族が故人の死を受け入れる時期という意味でもあります。また、百か日を「卒哭忌」とも言います。こちらは文字通りの意味です。

 

 古来より、大事な人の死を受け入れて日常に戻るのには、これくらいの時間を要すると考えられてきたということでしょう。

 

 ただ、これもあくまでも「平均値」や「理想値」にすぎません。

 中には、「四十九日を過ぎても納骨もしないと、死んだ人が迷う」とかいう、出典不明のことを言ってくる人もいて、遺族の方を悩ませることもあります。また、どこで聞きつけたのか、霊園や墓石のパンフレットやDMが送られてきてプレッシャーをかけてきたりします。

 

 そもそも葬儀関係のことは、仏教由来の儀軌や経典によるものではなく、習俗によるものが大半です(中には三日以内に納骨するような地域もありますし)。ということは、地域や時代によって同じである必要はありません。さらに申し上げると、故人と遺族の関わり方も様々ですし、考え方も様々です。

 

 無理にどこかの時点で「家族」から「遺族」へと切り替える必要はないのではないでしょうか。

 むしろ、いつまでも「家族」であり、「遺族」でもあるというのが自然なのかもしれないですね。