不慳貪

 今日も十善戒の話の続きです。

 今日からは「心」の戒律です。

「不慳貪」とは、ごく簡単に言えば、物惜しみをしないこと、欲張らないことです。

 

 以前に、塾で教えていたときのことです。

 同僚の社会の先生が授業を終えて職員室に戻ってきて、こんなことがあったと話してくれました。

 小学校六年生の社会の授業で、世界恐慌の単元だったそうです。

 東北の寒村の子供が、大根を丸かじりして飢えを凌ごうとしている写真を紹介したそうです(皆さんも教科書で見たことがあると思います)。

 それを見たひとりの児童が「あほや、あほや」と言ったそうです。

 普段はおとなしい先生が、ものすごい剣幕で「誰がアホやねん!」と怒鳴りつけたところ、さすがにその子もまずいと察したようで、とっさに「(アホなんは)僕」と言ったそうです。

 

 何か、現代の風潮としてお金を持っていることが偉い、貧乏なのは才覚が無い、みっともないことといった価値観が蔓延しているような気がします。「清く 貧しく 美しく」なんていう言葉は過去の遺物といったところでしょうか。

 さらには、いかに楽して手っ取り早く上手に稼ぐかという点が格好良さの基準となっていて、汗水たらして働くことが美徳ではなくなっているようにも思います。

 

 もちろん、お金を稼ぐことが悪いわけではないですし、商才のある人を見ると素直にすごいなあと思います。お寺だって、商売上手なところがありますし。

 しかし、真のお金持ちが尊敬されるのは、お金を持っていることではなく、いかに上手に使うかということではないでしょうか。江戸時代の豪商の中には、幕府による社会保障などというものが機能していない中で、民間レベルでのセーフティネット的な役割を果たしていた者も結構いたようです。

 

 といっても、あやしい宗教(もどき)みたいに、全ての財産を教団に寄付して・・・とかいうつもりはありませんし、そもそも「欲」を否定するつもりもありません。

 むしろ、「欲」を上手に原動力とすることを真言宗では説いています。

 

 欲にも「悪い欲」と「良い欲」があります。「少欲」と「大欲」ともいいます。

 悪い欲は面倒です。満たされることのない無間地獄のようなものです。

 のどが渇いたからといって、海水を飲み続けるようなもので、永久に満たされることがない欲です。

 はたから見ていると裕福で何の苦労もないだろうな、と思える方が、まったくそうではないということは珍しいことではないですね。

 

 前にも申し上げたと思います。百パーセント他人の為なんていうのは聖人でないと無理です。念珠をするとき、みなさんは「自分方向 他人方向 自分方向」と擦ります(高野山真言宗の在家の方向けの話です)。

  それと同じように三分の一だけでも、人の為と思って欲をむけることができれば十分に「大欲」といえるのではないでしょうか。

 なかなか難しいかもしれませんが、こういう機会に不慳貪戒を確認することで意識していければと思います。

 

※ 令和三年六月薬師護摩での法話に加筆修正したものです。