天上天下唯我独尊

 今日は花祭りということで、お釈迦さまの話をしたいと思います。

 

 既に、玄関にいらっしゃった、生まれたばかりのお釈迦さまに甘茶をかけて下さったかもしれません。

   ご存じの通り、今から二千五百年ほどむかしの今日、四月八日にお釈迦さまがお生まれになりました。

 すぐに立ち上がって、東に七歩、南に七歩、西に七歩、北に七歩歩かれたのち、天と地とを指さして「天上天下唯我独尊」と仰ったというのが、あのお姿です。

 その際には、お祝いというわけで龍王が現れて、天から「甘露の雨」を降らしたとされます。

 ですから、その逸話をなぞって、お釈迦さまの像に甘茶をかけるわけです。

 

 檀家さんの中にも、「この寺に誕生仏なんかあったんだぁ」とおっしゃる方もおられます。真言宗では「花祭り」はないものだと思っていた方もいらっしゃったようです。

 

 たしかに、真言宗ではお釈迦さまの存在感が薄いです。このお堂には密教を伝えたビッグネームである「真言八祖」像がかかっていますが、その中にもお釈迦さまは入っていません。

 そもそも、密教は仏教ではない、むしろヒンズー教に近い、と指摘する学者さんもおられます。たしかになるほどと思う部分もあります。

 しかし、密教が仏教であるか否か、判断するには「仏教」の定義によるのではないかと思います。

 

 以前にも、お話したかも知れませんが、大切なことですので申し上げます。

 仏教には三つの定義があるとされます。

 一つ目は、今日が誕生日である「お釈迦様」ことガウダマ・シッダールタという仏の教えという意味です。

 

 二つ目は、仏になるための教えという意味です。

 お釈迦さまの亡くなられた後、修行者たちは「どうせお釈迦さまの様には覚ることはできない。それなら、仏の下位互換たる『阿羅漢』を目指そう」となったわけです。

 でも、そうではない。自分たちだって、手段と努力次第では仏になれるんだ、と考える方たちが現れるわけです。日本の仏教は、大乗仏教が主流ですが、まさしくそういう考え方です。だからこそ、それぞれの宗派のお祖師さんたちは、禅であったり念仏であったりと、より多くの方が仏になれるような方法を必死で考えたわけです。

 

 三つめは、仏であることに気づく教えという意味です。

 普通の修行をしていても、何度も転生を繰り返して、多くの時間が必要とされます。あのお釈迦さまでも、あの誕生の瞬間の前には、人間だけではなく、ときには猿や鹿などの生を過ごしてきました。

 密教では、そうではなく、「即身成仏」を目指すわけです。そのとっかかりとして、まずは、自分の中に「仏」がいることに気づく必要があるわけです。

 みなさんも、直感的に、あるいは経験として、自分の中の仏を肯定できるのではないでしょうか。

 たとえば、あとで、自分でもびっくりするような素晴らしい行動を無意識でとったなんてことはないでしょうか。

 

 いやいや、三つ目の定義は、お釈迦さまの仏教とは違うでしょう、という方がいるかも知れません。いえ、言っておられますよね。しかも、生まれてすぐに。

 

 「天上天下唯我独尊」

 

 これは、暴走族が特攻服に刺繍したりしていきがるための言葉ではないです。

 そして、お釈迦さまだけに当てはまる言葉でもないです。

 人は誰しもが、この身の中に「仏性」という、仏の種というか、小さな仏をもって生まれてくる尊い存在であるわけです。

 それを、仏にふさわしい行動、言葉、気持ちを保つことで、少しずつ大きく育てていくことが成仏へのプロセスです。

 

 本当は、自分も仏なら、他人も仏と思い、相互礼拝、相互供養できればベストなのでしょうが、なかなか難しいかもしれません。

  

 まずは、自分の中にちゃんと仏様がいらっしゃること、そして、この娑婆の世界に、仏となるチャンスを与えられて送り出されてきたことを、今一度確認する日としたいものです。

 

※ 令和三年四月八日薬師護摩ならびに花まつりでの法話に加筆修正したものです。