ある僧侶の方が、こんな相談を受けたそうです。
「ある方から言われたんです。この数珠には作った人の魂が入ってしまっているので、『魂抜き』してもらう必要があるそうなんです。どうしたらいいですか。」
さすがに答えに窮してしまったそうです。
むしろ、職人さんの魂が入っている方がありがたいと思うのですが。
そもそも『ある方』って何者なんでしょう。そんなことを言うんなら、ご自身が『魂抜き』すれば良いでしょうに。
あるアニメの主人公が「私は俗信は構わないのですが、迷信は許せません。」と言っていましたが、自分もその通りだと思います。
俗信と迷信の定義づけも色々ありますが
俗信とは、『科学的根拠や合理的な裏付けに欠けるものの、社会において広く流布され伝承されてきた、ものごとの捉え方や考え方、また考えられた内容』
迷信とは、『俗信のうち、社会生活上実害がある、もしくは道徳に反する内容』
として区別することにしておきます。
道徳に反するか否か、合理性の有無を判断する際には、個々人の主観に依るところが大きいですから、俗信か否か、迷信か否かを区別するのは難しいですし、意味か無いのかも知れません。
合理的には説明できないと言っても、俗説の中には先祖からの経験則や智慧に裏付けされたものも多いでしょうから尊重すべきと考えます。
しかし、根拠もないのに、徒に人を不安にさせて、不幸にするような迷信は排除されるべきかと思います。そして、迷信か否かを区別するために役に立つのが、正しい信仰心と知識なのでしょう。
拙寺の辺りではあまり耳にしないのですが、地域によっては、葬儀から四十九日までが三か月にわたることは『三月またぎ』になり、縁起が悪いとされ、四十九日の日付を繰り上げるということがあります。
これもはなはだナンセンスな話です。
「不幸ごとが三(身)に月(付き)、縁起が悪い」というダジャレがもっともらしい根拠にされているのですから。
昔は今と異なり、喪中期間は本当に活動を制限されていました。さすがに一年とかだと長すぎるということで、短縮されていき、最短で四十九日くらいとされていきます。しかし、経済活動の盛んだった上方では、それでも長すぎるということで、智慧を絞って『三月またぎ』という便法を生み出したのだという説もあるようです。
宗派によって考え方は異なりますが、人が亡くなると生まれ故郷である仏様の世界に還ります。ただ、娑婆の世界に慣れ親しんだこともあり、なかなか割り切れるものではないでしょう。
この世での汚れを落とし、仏弟子としてあるべき姿となり、仏様の世界へ旅立つ準備を整えるのが葬儀です。
そして、不安な故人が迷わないように七日ごとに仏様がチェックポイントに立って導いてくださっています。
初七日では、娑婆への未練を断ち切るように、お不動様が厳しめにおしりをたたいてくれます。
二七日では、見慣れたお顔であるお釈迦さまが迎えてくださり安心します。
三七日では、文殊菩薩様から仏法を学ぶ上で必要な知恵を授けてもらいます。
そして四七日、五七日、六七日を経て七七日(四十九日)で『一人前の仏様』になられるわけです。このタイミングで白木の仮位牌から塗りの本位牌に替わるのもそういう理由です。
このことを分かっていれば、むしろショートカットして四十九日をすることの方が不都合であることが自明でしょう。
もっとも、参列される方の都合などを調整する必要性から、ある程度日程を前倒しすることはやむを得ないかと存じます。それでも五七日を遡らない程度が許容範囲ではないでしょうか。
結局、正しい信仰こそが迷信に振り回されない防具なのでしょう。