布施は100×1よりも1×100

 先日、ある業者さんの依頼で導師を勤めた葬儀を終え、帰ろうとすると、参列者のお一人から声をかけられました。なんと、以前に葬儀をしたときの喪主さんでした。本当に偶然です。というのもその以前の葬儀と言うのも、とあるお寺の下請けの下請けみたいな形で行ったものでしたから。意外と、法務を通じて多くの方と縁を結ばせていただいているのだと実感いたしました。

 

 前にも書いたかもしれませんが、拙寺は檀家が少ないですので、檀家さん以外の方の葬儀や法要を引き受けています。むしろ、そちらの比率の方が高いです。

 Facebookをご覧いただいている方なら、結構な頻度で、遠方での法務をこなしているのをご存じの通りです。

 

 多くの檀家を抱えて、ドーンと構えていれば、黙っていても高額なお布施が集まるお寺さんなんかから見れば、新幹線を利用すれば赤字になりかねない法務に、バスやら在来線を乗り継いで必死で馳せ参じる姿は滑稽に見えるかもしれません。

 

 お布施と同じようなもので、勧進というものがあります。お布施と異なる点といえば、寺の修復や仏像の建立といった風に、目的が決まっていることです。

 ただ、もらうだけでは申し訳ないので、エンターテイメント性を加えたのが「勧進能」ですし、射幸性を煽って盛り上げたのが宝くじの原点にあたる富くじだったりします。

 昔、ある勧進僧が豪商などを巡って効率よく大口の寄付を集めようとしたところ、師僧に怒られたそうです。というのも、勧進はお金を集めるだけでなく、できるだけ多くの人に仏縁を結んでもらい、その縁を深めていくという目的があるからです。ですから、金額が少なくて、手間がかかろうとも、なるべく多くの方から布施を頂くことが価値があるというわけです。

 

 話は変わりますが、袈裟には色々な種類があります。

 袈裟は「福田衣」ともいうように、あぜ道で区切られた田んぼが組み合わさっているようなデザインをしていて、五条袈裟、七條袈裟や二十五条袈裟などといった種類があります。

 ここでいう「条」は袈裟が縦方向に何分割されているかを表しています。ですから五条袈裟に比べると二十五条袈裟の方は、より細かい布を数多くパッチワークした模様になっています。

 そして、袈裟としての「格」は条数が多いほうが上です。

 

 また、袈裟は「糞掃衣(ふんぞうえ)」とも言います。

 最初は袈裟を作る際には、人からいただいたぼろ布を使いました。再利用しつくされた布ですから、洗ってもなかなか汚れがとりませんし、破れているところも多いわけです。ですから、使えそうなところを切り取って縫い合わせて作ったのが始まりです。

 ですから、前述のように田んぼのような模様になりますし、色も「糞掃衣」といわれるように茶色や木蘭といった薄汚れた色が如法というわけです。

 今では、ただのデザインになっていますし、金糸どころかプラチナ糸を使っている袈裟なんかもあります。昔のお坊さんが知ったら苦笑いすることでしょう。

 

 つまり、条数の多い袈裟の方が「格上」とされるのは、それだけ多くの方からの布施として布を頂いて作られた徳の高い袈裟だからということなのです。

 

 「縁なき衆生は度し難し」とはお釈迦さまの言葉です。

 

 葬儀の簡略化が進んでいます。自分もここ数か月で導師を勤めた葬儀の大半は、通夜のない一日葬でした。また、火葬炉の前で簡単なお経をあげて見送るだけという炉前読経も何件かありました。

 そのことをただ嘆くのでは間違っているのかもしれません。

 むしろ、こんなコロナ禍や宗教離れ…などの逆境にあっても、何らかの形でできる限りの供養をしたいと思ってくださることはありがたいことです。

 普段は、仏教なんかに興味を持っていない方たちでも、仏教にふれることになる数少ない機会が葬送の場面です。

 それすらも失われそうな気配がある中で、負担の少ない形の葬送を選択できるようになったことで、仏縁を持っていただける機会をいまなお多く頂けている現状には感謝しています。

 

 せっかくいただいた機会です。遺族の方にちゃんと寄り添える葬儀をすることで、「仏教も捨てたもんじゃないなぁ」「ちょっと仏教を勉強してみようかな」と思っていただけるように工夫しなくてはならないと思います。