見えない力

 先日、ある本で、上座部仏教(主に東南アジアで盛んな仏教)の長老さんがこのようなことを書いておられました。

 「神仏に加護を願う文化は世界中に有りますが、御守をぶら下げる文化は日本独特のものでしょう。(中略)以前に、あるお坊さんから、お守りとして頂いた数珠も、そんなものに心の平安を願うのは格好悪いので捨ててしまいました。」

 

 日本人の中でも、最近は「無宗教」を名乗る方が増えていますが、何かのアンケートで見たところ、お守りをゴミ箱に捨てることが出来るか?」という質問に対して、「はい」との回答は殆どありませんでした。

 それは信仰心によるのではなく、むしろ正しい信仰を持ってないゆえの迷信がもたらす「怯え」からの行動に過ぎないとの解釈も成り立つでしょう。

 ちなみに、よく立小便される場所に、鳥居のマークを描いておくと一定の抑止効果があるそうです。

 

 ところで、最近では科学と宗教は接近しているように言われています。「俺は理系で合理主義者だから、宗教なんてものは信じない」、なんてことをいうのは格好よくなくなってきているように思います。実際、自分が伝法灌頂を受けたときには、お医者さんや脳科学者の方もおられたぐらいです。

 

 特定の宗教に対する信仰とはいえないにしても、何か人知の及ばない力を肯定している科学者の方は多いです。そのような力を「サムシング グレート」等と呼ばれているのを耳にした方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

 先ほどの話であれば、御守なんて言うものは、物質としてはただの布の袋や紙の札かもしれません。信仰の異なる人ならば、そこにこめられているとされる神仏の力を否定することができるかもしれません。しかし、そこに込められた思いと、その思いのもたらす力までを否定することはできないと思います。

 病気の方の為に、家族や親友がわざわざ遠くのお寺までお参りして手に入れてくれた病気平癒の御守、受験生の孫の為におじいちゃん、おばあちゃんが天神様にお参りして、送ってくれた合格祈願のお札‥等。もちろん自分たち宗教者も祈願者の方の為に、祈りをこめて魂入れしています。それらの思いの力を全否定できるでしょうか。

 

 最近、「自己責任」という言葉が、安い意味で濫用されているように思います。でも、自分で責任をとることができる範囲なんてたかだか知れているのではないでしょうか。

 自分の人生だから、どう生きようと自己責任だからかまわない、なんていう主張は、はなはだおごった、幼稚な考えの様に思います。

 

 この世に生まれてきたこと、いま生きていることは当たり前のことではありません。生まれることが出来なかったいのち、生きたくてもかなわずに消え行くいのちのことを考えれば、簡単に想像できることです。

 

 なにか特別な力によって生かされていることに感謝して、その幸運を無駄にすることなく、有意義に生きたいものです。

 

※ 寺報「西山寺通信」令和三年二月号の内容を修正したものです。