仏罰はあたる?あたらない?

 大学時代、日本法制史ゼミに所属していました。

 内容は、江戸時代の刑罰制度で、当時の刑法に当たる「公事方御定書」と、裁判記録に当たる「御仕置例類集」がテーマでした。テレビでお馴染みの「鬼平」こと長谷川平蔵宣以の裁判記録なども目にしました。

 当時、世界最高の治安を誇っていたといわれる江戸の町。当時の刑罰制度を知ることで、現代における犯罪減少のヒントが得られるのではないかと思ったのです。

 残念ながら、答えは出ませんでしたが、現代の感覚からすると、かなり厳罰主義であるような印象を受けました。

 

 現在では刑罰は、単純な「目には目を」的な応報刑というわけではなく、一定の効果を期待した目的刑であるとされます(応報刑的な面を否定するわけではありません)。

 そして、目的には、一般予防と特別予防があります。

 

 一般予防とは、犯罪とは直接に関係しない「一般」市民を対象にして、犯罪を抑止させるという予防効果です。

 一つは威嚇効果です。

 犯罪を犯したら、こんなつらい目に遭うんだよということをあらかじめ示しておくことで威嚇して、犯罪を踏みとどまらせる効果です。

 ただ、いくら法で定めていても、適切に運用されていなければ意味がありません。

 権力者なら、罰を受けないとか、そもそも検挙率が低いというのもダメです。

 「なんだよ、犯罪を犯したって、逃げ得じゃねぇか」と世間が思ってしまっては、犯罪抑止効果が低下してしまうからです。

 そういう意味で、刑罰が適切に科されることによって、司法への信頼を高める効果も大切です。

 

 一方で、特別予防とは「特別」な対象、すなわち犯罪者に対する効果です。

 まずは教育により更生をはかり、再犯を防ぐという効果です。

 もう一つは、更生が期待されない期間は、社会への危険を取り除く必要があるという隔離効果です。

 死刑についていうと、教育効果は当てはまらずに、隔離効果のみが当てはまることになります。

 

 これらの刑罰は、人が自分たちの社会を守るために作ったものです。

 それに対して、仏罰はどうでしょうか。

 

 仏罰にも一般予防効果はありそうですね。

 悪いことをすると罰が当たるとか、地獄に落ちるとかいうのを恐れて、まっとうに生きるというのであれば、威嚇効果が表れています。

 また、悪い奴には仏罰が当たり、善人は必ず報われるというのを目にすると、「天網恢恢疎にして漏らさず」ということで神仏はちゃんと見て下さるんだという信頼が生まれ、一層真面目に生きる励みになるでしょう。

 

 ただ、残念ながら、仏罰は刑罰と異なり、すぐに適用されないこともあり、「神も仏もあったもんじゃない」と愚痴る人がいるのも事実です。

 そういう意味では、昔話や時代劇みたいに、分かりやすいタイミングで勧善懲悪が果たされる方が、社会は安全かつ平和なものになるのかもしれません。

 

 しかし、仏罰を恐れているから、善行に励むというのでは、仏教の目指す本当の善ではありません。

 善行は善行として、悪行は悪行として業として蓄積していくのですが、すぐに分かりやすい形でご褒美も罰も与えてくれません。それは、私たちが自発的に善をなす存在になることを期待されているからかも知れません。

 

 たしか、勝海舟とその塾生たちとの話だったと思います。

 塾生たちが、わいわい騒いでいます。

 「神なんて居るわけないよな。」

 「ああ、さっきも神社の境内で、立ちしょんしてきたけど、この通り何の罰も当たってないぜ。」

 みんな、大笑いしているところに、先生が入ってきて一言

 「もう、罰は当たってるじゃないか。」

 生徒がきょとんとしていると

 「神社に立ちしょんするなんて失礼なこと、およそ人ならできねぇことだ。そういう意味じゃ、お前らはもう、犬畜生になるっていう罰があたってるじゃねぇか。」

と言い放ったそうです。

 

 神仏を過度に恐れる必要はないと思います。

 さらには、無理に神仏の存在を肯定して、信仰しろというわけでもありません。

 しかし、何か大いなる力によって見守られている、いわゆる「お天道様が見ている」という気持ちを忘れて、謙虚さを忘れてしまっては、人間は人間ではなくなって、単なる生物学的な「ヒト」に堕してしまうように思います。

 

 謙虚に生きること、すなわち何かに生かしてもらっている、と意識することで、神仏の警告メッセージも聞き取りやすくなるのではないでしょうか。