お礼参り 願ほどき

 昨年末のことです。

 拙寺にマイクロバスが止まり、中からぞろぞろと人がおりてくるのが見えました。

 うちは観光寺院ではありません。行事のときは檀信徒の方が来てくださいますが、普段は閑散とした寺です。

 怪訝に思い、よく見てみると常々、星祭や薬師護摩でお世話になっている信徒さんたちでした。

 お話しを伺うと、一年間お世話になった色々な寺社にお礼参りをしてまわっているとのことでした。

 網元さんであり、料亭もされている方なので、漁師さんや従業員の方を連れて、バスで「お礼参りツアー」をされていたわけです。

 手作りの奉納のぼりを納めて下さり、帰って行かれたときには、何とも言えない幸せな気持ちになりました。

 

 「お礼参り」と同じような意味で用いられる言葉として「願ほどき」というものがあります。

 願い事が叶った後、神仏に感謝を述べて、祈願に対する神仏のはたらきを止めてもらう行為といえばよいでしょうか。

 祈願系の伝授をうけたときの話です。

 縁結びの祈願をお願いした方が、無事に良い方と巡り合って結婚したそうです。ところが、うまくいかない。何の不足も不満もないのにです。本人にもよくわからない状況だったそうです。

 同じように、希望の会社や学校に入ることができたのに、すぐに辞めるはめになったという例も。

 共通していたのは、「願ほどき」をされてなかったそうです。

 もしかしたら、神仏は、願主がまだ満足できていないのか?と思い、「親切にも」働き続けておられたのかもしれないということでした。

 

 ただの偶然かもしれないですし、過度に不安を煽るつもりはありません。

 ちょっと調べると、何を根拠としているのか「願ほどき」のハウツーが色々と紹介されているようですが、そんなに難しく考えることはないと思います。

 

 あるとき、檀家さんから、御札や御守の御焚き上げを依頼されました。

拙寺の御札もありましたが、遠方の社寺のものもありました。その中には安産祈願で有名な宝塚の中山寺の御札も。

 「おかげさまで、孫が産まれました。本当は直接お参りしてお礼を言わなければならないと思うんだけど・・・」

という言葉を添えてくださったのには、ほっこりしました。

 なかには、お礼参りに行けないような場所で、めったやたらとお願いするもんじゃない等とおっしゃる方もいますが、そこまで、厳しいことを言うつもりはありません。但し、どこにお礼を言っていいのか分からなくなるくらいに願いを濫発するのはやめた方がいいのかもしれません。

 

 願ほどきなんてただの迷信だと言い切る方もいらっしゃいます。そういう方にとっては、そもそも願掛け自体が迷信であり無意味なものでしょう。

 

 自分が、幸せな気持ちにさせていただいたくらいですから、お礼を言われた神様や仏様も喜んでくださっているに違いないと思います。

 

 よく同じ御札や御守を沢山集めている方もいらっしゃると思います。同じ御札や御守を集めても、ゲームみたいに「限界突破」してパワーアップするものではないでしょう。それよりも前に頂いたお札や御守を感謝の気持ちを込めてお返ししたうえで、新しいものを授かる方が験があらわれるように思いませんか。

 

 一年間(もしかたら数年、数十年)頑張ってくださった御札や御守がありましたら、お持ちいただければと存じます。皆様の感謝の気持ちとともにお焚き上げさせていただきます。