葬儀こそ仏縁

 かつて、学習塾で中学受験の算数を担当していました。

 その塾では、「特進手当」というものがあり、特進クラスを担当する講師には別途、手当がついていました。たしか1コマ(90分)で1000円くらいだったかと思います。実際、多くの学校の入試問題を分析し、出題傾向や最適な解法を探るためには、自腹で様々な教材を買って研究する必要がありましたので助かっていました。

 しかし、多くの先生方から特進クラスだけ手当がつくのはおかしいというクレームがつきました。その言い分は次のようなものでした。

 「上位クラスの生徒よりも下位クラスの生徒を教える方が困難だ。何故ならば、学習意欲をもたせるところ、こちらを向かせるところからはじめる必要がある。」

 なるほどです。結局「特進手当」は廃止になりました。

 

 以前、高野山で『布教』の授業を受けた際に言われたことです。

 「道で法話や説法を始めたとしても、足を止めて聞いてくれる人なんて居ない。

 しかし、嫌でも聞かざるを得ない状況がある。それが葬儀。そのチャンスを

 無駄にしてはいけない。」

 先の話でいうと、振り向いてもらう労力を必要としない葬儀の場は、仏教を伝えやすい「特進クラス」ということです。

   

 葬儀の場では、嫌でも身近な人の死を目の当たりにすることで、「諸行無常」、「諸法無我」といった仏教の本質を否が応でも実感します。普段は身近ではない仏教かも知れませんが、この場面では、学問、哲学、倫理などとは同列ではない具体的な「そこにあるもの」として存在します。

 

 以前に東京で、葬儀社の依頼で導師を務めた葬儀のときのことです。

60代の女性の方の葬儀でしたが、式後に赤ちゃんを抱いた娘さんがボソッとこう仰いました。

 「人間は何のために生まれてくるんでしょうね。」

 生の象徴である赤ちゃんと、母親の死を前にしたからこそ、出てきた言葉だったでしょう。

 そして、そういうときに模範解答は提供できないにしても、ちゃんと寄り添って「安心(あんじん)」を提供することが出来るのが宗教者なのでしょう。

 

 最近、僧侶をはじめとする宗教者を呼ばない葬儀というものも出てきているようです。

 たしかに、常日頃、信仰もしていないのに、葬儀の場に僧侶を呼んで、仏弟子として戒名を授かり、送り出してもらうことなんか無意味ではないかと思う方もいるかもしれません。

 ただ、葬儀を機に、むしろ葬儀という場面だからこそ、仏の教えというものが空虚なものではないと実感していただけるのではないでしょうか。

 

 「縁なき衆生は度し難し」

 葬儀という、仏縁を結ぶ機会を大切にしていただきたいです。

 そして、自分も僧侶として「安心」を与えることができる葬儀がてできるよう、努力していきたいと思います。