本当に寄り添うために

 今では、皆さんあきらめてくれたのか、結婚を勧める方もいなくなりました。

 かつて、ある先輩には

 「結婚して、子供を持つことや。特に住職になるつもりやったら。子供もいない住職には子供の悩みを打ち明ける人はおらんし、結婚もしていない住職に、家庭の悩みを相談する人はおらん。」ど言われました。

 たしかにそうなのかもしれません。

 

 ちょうどその場には若い僧侶たちもいたので、彼らに対しては

 「若い奴は遊ばなあかん。どんどん恋愛経験も積むことや。そうでないと恋愛相談にも乗られへんし、人間としても成長できんぞ。」

と仰っていました。

 それを額面通りに受けた若い尼僧さんが

 「じゃあ、自分もがんがん遊ばないと駄目ですよね。」

と意気込んで「遊ぶ宣言」をしたところ、その先輩は慌てて

 「いやいや、実際に遊ばんでええ。本ゃ映画を見ることでも十分に経験も積める。」

などと言って、まるで父親のような顔で、必死で思いとどめていたのは面白かったです。

 

 昔だからといって、僧侶がみんな家庭を持っていなかったわけではないそうです。僧侶にも色々な立ち位置があり、市井にあって最も庶民に近いところで布教をしていたのは「聖」と言われる方々でした。その方たちはむしろ、妻子持ちというのが普通だったそうです。

 しかし、一般的には(表向きには)、僧侶は妻帯しないという「設定」でした。

 それでも、信者さんたちが頼ってきて、いろいろな相談をしてきたというのは、頼るに値するだけの裏付けがあったわけです。それは、厳しい修行をしているだとか、戒律をしっかり守ってるとか、覚りを開いたからといった人間性の「聖なる部分」であり、対等な立場や環境を共有しているということではなかったわけです。

 

 結局、以前にも書いたように「何をするか」ではなく「誰がするか」ということなのでしょう。

 「坊さんのくせに」等という表現が使われるのは、坊さんにこうあってほしいという理想があるからなのだと思います。

 そういう意味では「さすが坊さんやな」といわれる生き方を心がけたいものです。

 

 一方では、あまりに浮世離れした価値観にとらわれないように、バランスよく見聞をひろめるように努めていきたいものです。