施餓鬼について 令和四年版

 本日は施餓鬼法要にお集まりくださりありがとうございます。

 毎年、同じような話になりますが、ご容赦ください。

 

 先日、葬儀をさせていただいた方の戒名に「乗」という文字を使わせていただきました。これは「大乗仏教」の「乗」です。迷いのない覚りの世界へ至る「乗り物」という意味です。

 大乗仏教の対義語は小乗仏教です。もっともこの呼び方は、大乗仏教側からのものです。一般的には「上座部仏教」と呼ばれる東南アジア方面の仏教です。

 私たちの仏教は「大乗仏教」です。

 文字通り、みんなで大きな乗り物に乗って、覚りの世界に行こうという仏教です。

 

 以前にも申し上げましたが、自分たちの数珠の擦り方は手前→むこう→手前です。

 これは自分→他人→自分を表しているいいます。すなわち、自分のことを2つお願いする間に他人のために1つお願いするようしなさいということです。

 自分たちが阿闍梨になったのちは一歩進んで、むこう→手前→むこうに擦るように言われました。今度は、自分のことよりも他人の為に祈るようにしなさいということです。なかなか、実践できていませんが。

 

 一方で、仏様は100パーセント他人のことを考えて行動されているわけです。

 皆さんのご先祖様は、ちゃんと成仏されていますからそういう存在です。

 その方々が、お盆ということで皆さんの元へ帰ってきます。

 その途中で、誰にも手を合わせてもらうこともできず成仏できずに苦しんでいる餓鬼さんのような存在を見かけたら、放っておけるわけがないですよね。

 「どうだい、もしよければ一緒に帰らないか。うちの子孫たちがちゃんとごちそうを用意して待っていてくれるから一緒に食べようよ。」

とかいって誘って帰ってきているのではないでしょうか。

 

 本来、お盆と施餓鬼は別々の行事です。

 実際、真言宗の僧侶はお盆に限らず、毎日施餓鬼をしています。

 しかし、一般の方々が、毎日施餓鬼をするというのは大変ですので、上のような感じでお盆に施餓鬼をくっつけたのが本当のところだと思います。

 

 今日は少しだけ、施餓鬼の作法についても少し説明したいと思います。

 餓鬼さんの絵を見たことがあると思います。

 痩せこけて、おなかがポッコリしてます。栄養失調のような姿ですね。

 食べ物にありつけないということなのですが、そもそも食べ物をとることができない体なのだといわれています。

 もう一度、餓鬼さんの姿を思い出していただけると、のどが細いことに気付くのではないでしょうか。

 餓鬼さんののどは細くて、食堂が針ほどの太さしかないといわれています。

 ですから、さきほど、餓鬼さんののどを広げる作法をしました。しかし、それでも大変だということで、「水の子」のように野菜を食べやすく細かく切って、さらにはのどを通りやすいように水をかけてあげているのです。

 皆さんが、先ほどやってくださった「水向け」というのは、餓鬼さんの為に、食事を食べやすくしてあげる作法だったのです。

 

 しかし、餓鬼さんは、自分のような醜い存在が、仏様に近づくのは畏れ多いと思っているようです。ですから、このお堂の中に入ってくることはできません。

 そのため、さきほど食事を庭までもっていきました。

 そして、背の低いとされる餓鬼さんのために、わざと低い位置に置いてあげたというわけです。

 このように、一つ一つの作法が、餓鬼さんをもてなすため、思いやりに満ちたものになっています。そして、皆さんも「水向け」をして協力してくださったわけです。

 

 先祖でも知り合いでもない餓鬼さんの為に、そのような施しをする行為こそ、大乗仏教が最も大切にしている100パーセントの「利他行」です。

 

 そのような姿を見て、仏様として先輩である皆様のご先祖様は、誇らしく、喜んでくださったはずです。

 だから、施餓鬼供養がそのまま先祖供養になるというわけです。

 

 今日は、皆さんのご先祖様を含めて、沢山の仏様が喜んでくださったはずです。

 もちろん、餓鬼さんたちも、単に一時しのぎでおなかが膨れただけではなく、未来永劫救われました。

 「法施」として、一緒に般若心経をあげていただいたのはそのためです。

 新しい仏様の誕生ともいえます。

 

 これを目的とするのはいけないのですが、施餓鬼は功徳が大きいとされています。

 誰にも手を差し伸べてもらえずに苦しんでいた餓鬼さんたちを、仏様にしてあげるというとんでもないことをするわけですから、当然と言えば当然なのかもしれません。

 

 今日は、そのような素晴らしい供養に、ご参加くださりありがとうございました。

 

※ 令和4年7月3日 施餓鬼法要での法話に加筆修正したものです。